あおいそら


 凍える洞窟を抜け、岩と氷塊の隙間から光が見えた時。突然、ユピトリは風のように人から獣へと姿を変え、翼を背中から伸ばして走り出した。

 まるで何かに呼ばれたようなユピトリに、咄嗟にイオは追いかける。けれど寒さに悴んだ足がもつれて、柔らかい雪の上に、花が落ちるように静かに転んだ。


 このように、思慕の相手になにかあれば、いつものユピトリなら槍が降ろうとも一目散に駆け寄ったのに。それから心配の言葉を言いたげに困って、眉毛を下げたはずだろう。

 きっと。今回もすぐ舞い戻ってきてそうしてくれるはずだった。はずだったのだけれども、そうだったのだけれども。

 今日のユピトリはどんどん離れていってしまって、やがては伸ばした手のひらで包み込んでしまえそうなほど、小さく遠くなってしまっていた。


 あーあ。

 転んでしまった恥ずかしさと、成らなかった期待に含まれた寂しさともどかしさ。イオは小鳥のように首を傾げる。それから、このまま遠くへ行って戻ってこないんじゃないか。もしかしたら彼女が私を忘れていってしまうんじゃないか。なんて、そう思ってしまって、取り留めのない小さな不安に、穏やかに胸がざわついた。


 多少の間を置いて、ゆっくりと服や体についた雪を払い、イオはユピトリの向かった方向へ歩く。そして崖のあたりまでそっと近づいて、目を細めながら頂からそっと空を仰ぐと。思わず白い吐息を漏らした。

ああ、なんと素晴らしい絶景だろう。

 これまで登ってきた山々が足元より下にあって、雪や氷がサラサラと注ぐ日差しに銀色に輝いているのだ。なんとも贅沢なこと。

 その遥か上で、ユピトリは泳いでいる。ここからでは彼女の顔は見えないが、きっと彼女のことだから子供のように喜んでいるに違いない。


 その様子を想像すると微笑ましいのだけれども、寂しいイオは不意に考えてしまう。

 もしや自由を象徴する翼を携えたものが、私のような静寂とあり続ける事は難しいのだろうか。

 それに、どこまでも雄大で、風の威厳に満ちた声に呼ばれてしまったのなら。大きな声で呼ばれたのなら、私のような静かな事象など意中の外になってしまって、きっと飛ばずにはいられない。だからユピトリは走りだしてしまった。


 彼女に添い遂げるものとして、その素直な姿にはなにか感銘を受けなければならないだろうに、一体この気持ちはなんというものなのだろう。


……そうか、なるほど。


 ぼんやりしながら、なんとなくわかったようだ。イオは寂しさや不安ではなくて、天を掛ける、力動の化身である彼女の自由さを羨んでいたようだ。

 隣の芝生は青いとはよくいう。大きく翼を広げ、力一杯に鳴きながら舞うユピトリの姿は、無垢でさえ嫉妬の心を抱いてしまうほど清々しいのだ。


 私もそのように、偉大な空を泳いでみたいものだ。あなたのように自由の中に揺蕩いたいものだ。あなたは、あなたは翼があっていいな。

けれどそれらは願ったところで叶わない事は知っている。それならせめて、彼女を私に繋ぎ止めておきたい。空の一片をいつも隣で見ていたい。


 だからイオは静かな雪原の上で、大きな声で、それもとびきり大きな声でユピトリの名前を呼んだ。