4章 34


「あ。」


 ただ知らないふりをしてみたりして、見たくないものから目を逸らしていたけれど。

 粘膜に愛を感じているだけの彼の言葉なんて、どうせインスタントで空っぽだろうけど。

 何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も…

 言葉が動脈に突き刺さる。


 元々愛玩されてきた彼女なんだ、ひとりぼっちはひどく嫌で、けれど人になってみてから薄々感じていた孤独を右や左のみならず、瞼の裏にまでばら撒かれてしまったら。

 立ち上がる埃に咳をしても一人。つい先程まで、夢見る少女のような甘い春に浮かれていた心は、迂闊な情けのせいで、彼の雪崩のような言葉に押し潰されてしまう。


 愛が終わった瞬間だった。


「…ごめんなさい。」


 ロゼもツァラもネクロもレノも逸見も。ほんとはみんな、ユピトリのこと。

 大嫌いなんだよ。

 鳥の足元に悲しみの雨が降る。


「私。もう頑張れない。」


 もう人の真似をすることをやめてしまおう、気付いてしまったユピトリはロビーへつながる扉を開け、一羽のヨタカになってしまった。


_______


 一羽の鳥が鳴いている。


 彼女はつよむしで、よわむしで、やさしくて、それとかっこつけむし。大丈夫なふりをしながら全くそんなわけでもなく、ここで何が起きているとか自分に何が起きているとかそんなの、よくわからない。


 思い出せないことは、無かったことにできるのだろうか。死んでしまったことにできるのだろうか。

 それも、わかんない。だって夢って忘れてしまうものなの。大切なことって忘れてしまうものなの。

 あたたかい夢の中で死んだ景色を見て、思い出した心が姿の形を変えてしまった。


 好きなものは、あおいそら。

 嫌いなものは、注射。


 どのくらいかな、100注射くらいかな。両手のひらくらいに小さくなってしまったユピトリは、100注射くらいの気持ちで天井の隅っこに泊まって鳴いていた。「キョッキョッキョ…」となますを叩いたような声で朝な夕な鳴いていた。


 日が沈み、月が昇る。月が沈み、日が昇る。


 ガラス越しに見える空と、彼女がみたい空とはちょっと違う。そこから地平線の方まで目をやると、遠くにはきっと街があって、行ったことのあるところもそうでないところもあるんだろう。あそこら辺には100注射より大嫌いなものも沢山あります。100そらより大好きなものも沢山あります。


 一羽の鳥が鳴いている。


 ほんとうは、私はあなたが好きでした。

 私、は。あなた、が。やっぱり好き。

 ヘンテコな鳥が、ヘンテコな声でうたっている。


 ヘンテコな鳥の名前はユピトリ。ユピでもトリでも、ユピテルでもありません。ユピトリがユピトリなのはとても前、はじめましてと出会う前よりもずっと前からそうでした。


 月が目を閉じて、もう一度開き始めた日の朝。

 あぁ、そうだったじゃないか。

 私は自分でちゃんときめて生きて、自分でちゃんときめて死ぬんだよ。ね、ヴァイス。

 むつかしい事を考えるのは苦手だけれど、ユピトリは夢をきちんと思い出してまた鳴きました。


 やがて鳴くのをやめて、ユピトリはすっかり変わってしまった自分の姿を見た。小さな翼は、本当は5本の指がある手だったのに。くちばしは、本当は気持ちを伝える口だったのに。これじゃきっと、みんなこの鳥がユピトリなのには気づいてくれないだろう。


 それは、いやだなぁ。


 ため息の後に天井を飛び降りて、機嫌を戻したユピトリは2本の足でしっかりと立ち、両腕をあげて大きく体を伸ばした。


「私、は、は。やっぱりユピトリ。これが、いい。」


 鳴き続けた声は枯れているけれど。再び元気を取り戻した彼女は最初にネクロと向かった部屋に一つお辞儀をして「さよなら」と確かに言った。

 もちろん心残りがないわけでは無い。けど数日の間、ロビーを誰かが通る姿を見かけなかったしのだからここはもう空っぽなのだろう。ならここはもうただの鳥籠で、そんな不自由、彼女は嫌い。


 だから彼女は飛び出した。外へつながる扉を両手で押し開け、全身に日差しを迎えて飛び出した。


『全く。本当に世話が焼けますネ。あなたのことなのでどうせ行き先は一つなんでしょう。』


 空っぽになった劇場では、一羽の鳥が鳴いていた。



 壊された外壁の山から破片が落ちる。落ちた破片が庭の水辺へと沈む。なにがどうあっても鬱陶しいくらい陽は上り、朝が来る。朽ちた劇場内では次第に掠れて途切れたクラシックが流れ出し、一つの演出ができあがる。そう、これはパフォーマンスである。


「なあ 刀返して」


 これは紛れもなくパフォーマンスである。演劇である。劇の続きである。さも自分が頭のおかしい奴のふりをして、ふりをしている。ぜんぶが"ふり"で、ほんとうが見えなくなったのもきっと"ふり"であると。ひとり劇場に残った逸見は、血で汚れた髪を一本に東ねて、なにも持たずに場内の奥から現れた。もうわかっているのだ。自分がそうであると。きっと。

 ほんとうに彼女に、ユピトリに会いたくなかった。彼女が羨ましくて、見ていられなかった。だからずっと黙って、準備してた。


「上手い返しができないなら、盗んだ俺の刀で、俺の体を真っ二つにして」


 へんな翻訳のような言葉を話してけたけた笑っている。ずっと彼女を遠くから見て、ゆっくり近づいて来る。首を傾げて、首と肩の間をトントンと叩いた。はやく、はやくして。はやくはやくはやく。

 どうやら自分の体から落ちる血に気づいておらず、辺りが輝いて見えている。自分が踏んだ場所はすべて真っ暗になり、花も枯れる。なにもないロビーの床を何度も踏みつけた。落ちる血を何度も踏みつけて、地面に塗り込む。その後は、ぶつぶつなにかを呟いており、聞き取れない。


「返して」

「はやく…」


 それだけはようやく聴き取れたであろう頃、もう彼女の三、四歩先に立っていた。

 ロビーにこびりついたさまざまな"血痕"がうごめいて、無数の棘になって、後ろから逸見を勢いよく貫いた。減多刺しにされた逸見は彼女に触れることなく。床に音を立てて倒れた。


 ____


 何もない真っ白な空間に立っている。確かにあったものがない。そこにあったものがひとつもな突然水滴ひとつぶ落ちる音がして間もなく、大雨が降ってきた。それでも体は冷えなくて、音だけが心地よく響く。目を閉じて水に濡れる。はあ。気持ちいい。ずっと濡れていたい。ずっとこうしていたい。


 ふう、と息を吐いて、目をひらく。

 濡れた髪をかきあげようとして、べたついた感覚に手のひら

 を見る。

 ____血液だった。手のひらの目線の先、足元の水も、血液だった。次第に水かさが増してきて、膝下まで真っ赤な海だった。血塗れの私は急いで歩き出し、血の海に逆らった。展示されいる過去を見返さず、ただあてもなく、重くなる脚を進めた。


 痛くなかった。どれだけ血を浴びようと、血に脚を取られようと、重苦しく、痛々しくみえているだけで、私は全く痛くなどなかった。ようやく少しの陸をみつけて、駆け上がる。息を整えてると、血でできた足跡があった。私は必死に足跡を追って、ようやく何もない空間で、やっとだとかを見つけた。

 その誰かは振り向くと酷く泣いていて、身体中から血を流していた。いままで浸かってきた血海は、この誰かのものだった。痛みを引き受けていたのは、この誰かだった。思わず腕を掴もうとしても、掴めなかった。私がこの誰かを、認識していないから。どれだけ触れようと手を伸ばしても、触れられない。次第に辺りは白くなって、だれかの姿が霞み始める。いやだ、嫌だ、行くな、行かないでくれ。

 私を置いていくな。行かないでくれ。


「ロゼ、ロゼ」


 よく聞く声で目を覚ます。どうやら泣いていたようで、鼻と喉の奥があつい。すぐそばでネクロが面倒を見ていてくれた。心配そうにこちらを見る彼に「すまない」ととりあえずの謝罪をして、私は手の甲で涙を雑に拭ってからそのまま逃げるように外へ出た。


 近くの浜辺まで来て、遠くを見つめる。さっきの夢は何だったのだろう。思い出そうとするとずっと血の味と血の匂いがして、頭がくらくらした。


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