4章 33


 吸血鬼なら不意に消える事など容易い事でしょう。エルドレッド・ロゼもまた、吸血鬼である。少し不器用でヘンテコな吸血鬼である。だから彼が、何か気まずいからといって口を濁すことはあれど、その場を立ち去ることはできないと確信している。


 暴くことを知っているなら、見つめているその目から目を逸らすことはできないこと、知っているでしょう。それにロマンチストは小説を書けてもドラマチックな演技はできない。

 ところがモノローグに墜落の兆しを見せた彼女に、先ほどの彼はやはりエルドレッド・ロゼなのである。


 確かに彼は私の名前を呼んだ。あぁきっと、そうやってまたイジワルしてるんでしょう。


 羽角がはねる、頬が赤らむ。キスにもならないものに喜んでいるのではない、彼にようやく会えたことが、ようやく彼に会えたことがただ嬉しくて…ユピトリは舐められたところへ手を添えた。


「ふふ。」


 憧れというのはそういうもの。彼女のそれは、ビロードに甘くて煙たい匂いを纏っていて、思慕にも似た柔らかなものだった。


 勘違いに勘違いを重ね、彼女の目には光が宿る。その目の端にようやく、舞台のあたりで伸びている逸見が入る。

 もしも今、逸見が刀を持っていたならば。春に浮かれた彼女はきっと、直ちに刺し殺されていたでしょう。ユピトリも彼の気の狂った鬼の面は厄介に思っていて、できるなら関わりたくないとさえ思っているのだけど。


「…なんだか、かわいそうだね。」


 その牙、刀が辺りにないのを何度も確かめながら近づき、Xiよりもっとたくさんの…コップ一杯分程度の憐れみと命を、本当は怖いのをこらえて分け与えてやった。

 彼と彼女の胸に光がにじむ。


「イツミ、逸見。起きて。ネクロを、探して。」



 なんでも欲しかった。持ってるものでも持っていないものでも、なんでも羨ましかった。脳がぷつぷつ途切ない。好きな電流が流れない。腕が痺れない。世界と自分が動いて、渦中にいるのを喜んで、脳を燃やしたふりをした。ふりをしているのを自覚するのが気持ちよかった。

 俯いたまま、意識を起こす。どうして今、この体はこの目はこの腕は壊れていないのだろう。

 陶しい。どこか負傷していれば、それだけを考えていられるのに。だってほら、あの女の匂いがする。あと半年くらい眠りたい。もう、いいだろ。面倒くさい。俺は主役じゃないし、いつだって愛してもらえない。ダルい。鬱陶しい。


帰れ」


 どこの誰だか知らない奴に言ったのと、同じセリフ。もう帰れしか言えない奴みたいに、同じトーンで、体制を変えずに呟いた。本心だった。帰って欲しい。帰ってください。帰ってください。もうだれもみないで。もうわかっちゃったから。帰ってください。慰めもいりません。触らないでください。構わないでください。生きていることを知らせないでください。

 逸見は重い体を起こし、客席の下に落ちていた破片を掴み、そのまま舞台上へと上がった。


⋯⋯⋯⋯嫌味も出てこない⋯⋯あぁおれ、あんた⋯⋯嫌いだよ世界一嫌いいますぐ地獄に落ちて欲しい あーあ、あー⋯⋯⋯、きらいきらいうん嫌いだいきらい⋯⋯いやが

 らせする気も起きないあんた あーうん⋯⋯⋯きらいきらいきらいきらい⋯⋯


 真っ暗な舞台の真ん中に立って、破片を握りしめ手を切る。手首に切れ目を入れる。腹の傷を抉り返す。痛い。あつい。いたい。気持ちよくない。いたい。しにたい。しね。しね。


「きたない⋯⋯⋯⋯きたないきたない!嫌嫌いやいやいやしねしねしねしね!!!!!いたい、しね、しね、しね、出て行け出て行け しね!いたい、しね でていけいたい、いっあーーっは、はあ、しね、んふ、しね しねしね、あっは でていけ しね ンフ、死ね」


 壊れたおもちゃのように同じ言葉を繰り返しながら、舞台の廃れた幕を強く引っ張って落として、上がってこれないようにした。さいごに、うっすらわらって、舞台裏へきえていった。


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