1章 4


 先など、未来など見てやるものか。破滅を、別れを知っている。どんな強風に吹かれても、決して進んでやらない。停滞する。何と言われようと、今を動かせてやらない。この夜を、明かさない。

 私の愛した化け物を、誰にも渡してやらない。


 思いなどない。500の枝があっても幹は一つなのだ。根本が揺らぐはずがない。たまたま、今途切れ途切れになりそうな、鳥の獲物が目に留まっただけだ。

 他人を信用するなと、言ったはずだ。外野など、決して。


 雨が降り続ける。雷が鳴り止まぬ。雷雨が再開される。音があると、物を考えなくて済む。終わりを告げる鐘を、聞かなかったことにできる。


 光など見てやるものか。この暗闇が、心地良いのだ。光の届かぬ海底で、静かに溺れていたいのだ。


「…………私のを、盗らないで。」



 太陽への告白が、それである。まるで幼子のようであるが、ただの言葉に多くの望みが託されている事を知り、“なるほど“とユピトリは思うのだ。


 また、その通りにしようとも思うのだ。相手が不信を拗らせた臆病者であるのなら尚更である。


「…盗らない。盗ってない。」


 それから一歩、彼に近づいた。が、強い眠気が彼女を襲い、ユピトリの足元はややおぼつかない。よく見ると、冷や汗をかいて青く震えているではないか。命が、尽きてしまいそうではないか。絶え絶えとした息をして、かわいそうに。


 それでも伝えたいことがあった。あなたの言う枝は、地に植えたら次の幹になる得るかもしれないしね。


「よく、わかった。あなたの、怒る理由。悲しむ理由。わかった。わかっちゃった。けど、ロゼを、悪い人と思わない。ので、だから、噛み付かない。私の正体も、隠さない。」


 それから“えへへ“と笑って見せた。



 ____水音。終わりの見えない、一面の青。

 孤独な研究者の愛した理想郷とは別の、余りにも綺麗な、曇りのない青い海。照らす月。


 止まる時、雷雨。泳ぐは無数の命。

 これは、人魚の世界。二人だけの、秘密の世界。そう、深海で揺れる化け物が、夜鷹の鳥を招待したのだ。


 痛みを、苦しみを忘れる、そんな感覚。

 血は止まり、自然の摂理に動かされ、羽ばたいていけるような、澄んだ空気。


 水中、響く泡の音。

 真っ直ぐで、澄んだ声。


『 彼に光を、見せないで。 』


 ブロンドの髪が、月明かりに照らされる。気怠そうで据わっているいつもの目ではない。高貴で気高く、正気を持った、濁りのない目。夜鷹の鳥の首を抉り喰った、張本人。



 そこは楽園とも言うのだろう。また、祖が生まれし母の胎は、いつの日にか夢見た空にも似ている。けれどそれは、所詮自由の真似事であって、自由の真偽を知るユピトリはこの空に努努飛び立とうとは思わないのである。


 さて、深海の王。貴方は一羽の鳥に目を留められるほど寛容であり、同時に不安であられると見た。


 次は古の書物の初編である。“光あれ“。

 この言葉をもって世界が創生されたと言うのに。

 これは、あたりを泳ぐ魚のようにただの一羽である。腹が空いたのであれば、気に召されなかったのであれば食ってしまえばよかったというのに。貴方が統治する国へ招いたとして、これに何かしら兆しを見たからではないだろうか。


 だとするなら、王の仰せのままにと言いたいところであるが。果たして、これは思いのままに羽ばたくであろうか。如何に。


「そう。…そう。」


 ユピトリはうなだれる。少し、考えてしまったのだ。また以前のようにはやはり戻れないのだろうかなどと。


 溜め込んだ言葉の次に“分かった“と言いたいところであるが。それは、それは、また別れを告げる事である。


 言葉や知恵、砂糖や在り方をくれた者と、できるのであれば共にいたい。心地がいい“あなた達と私“でまだありたい。


 それって、それって、わがまま?



 今にも折れてしまいそうな、呼吸を忘れてしまいそうな、溺れてしまいそうな、ひどく寂しそうなユピトリに。ユピトリの思いに。悟ったように深海の王は笑む。そしていつも通り、決して。その意味を告げない。隣人は卑怯だと思うだろう。


 泳ぐように近寄って、ユピトリの頬を両手で包み込み、口付ける。命を吹き返すような、力を与えるような魔力の量に、先程噛まれた首の傷が癒えていく。それからユピトリを愛おしそうに優しく抱きしめて、ゆっくりと離れる。


 深海の王は、エルドレッドの持っていたはずの注射器をすぐさま自分自身の首に突き刺し、確実に注入する。万物を潤すような、高貴な表情が歪む。震えて、目を閉じて耐えている。同時に、一面の青が、赤く、黒く染まっていく。泳ぐ命は枯れ落ち、溺れるような感覚に陥るなか、赤く終わる世界に、声が響く。


『 お願いユピトリ。俺を、見つけて。 』


 揺れ動く泡と水に邪魔をされて見えづらかったが、落ちていく深海の王は、確かに、涙を流していた。



 ___はっとするような感覚に襲われ目を開けたユピトリの前には、青の世界に包まれる前の研究者と、からの注射器と、口から血を流して床にぐったりと倒れている、深海の王、ツァラ・セルヴァンの姿。


 一連に呆然と立ち尽くしてしまう。けれどそれはいけない。許されない。立ち尽くすな、立ち尽くしてはいけないのだ、動け、歩け、走れ、飛べ。

 ユピトリは王の体に抱きついた。


「いやだ!」


 おそらくユピトリ同然に驚きを隠せないエルドレッドをよそに、ユピトリは叫び、吼える。慟哭などは後でいい。想いなども後でいい。

 抑えた胸はほのかに光り、ユピトリは己に宿る力を解放するのだ。


 トゥビヨンド。ここでは無い、二人の世界へ一度行ったのなら。この力が輝く理由として十分である。


 せっかく送られた命だというのに、ユピトリはその全てを使い果たしても構わないとさえ思っていた。愛した者を失った心を知っているからだ。


 腹の底から声が出る。

 ぐったりと、横たわる王のように、ユピトリの内側からも血が溢れる。


 二つの命を共有した今、想像を絶する事など容易い猛毒の一編を知り、体が痙攣する。また、口や鼻から、むせ返りながら血を流したが、それでも抱きしめる手を離さなかった。


 離してしまえば、泡になって消えてしまいそうな気がして。二度と触れられないような気がして。


 ねぇ、あなたのいない世界で、残された彼はどうなる?

 危惧した悲しみの一つである。後悔の種火になり得る一つである。


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