2章 6


 カラン。

 グラスに入った氷が溶けて、息をする音。

 風と寝息と、紙を捲る音。


 床に放ったらかしの少女を横目で見て、居た堪れない表情をして、はあ、とため息を吐く。


 獲物を始末し切らなかったことがないので、沸ききらないような腹の気持ち悪さに、白衣を洗っている時も、床を拭いている時も、ずっと難しい顔をしていた。

 “和解“という。知らん、そんなもの。知ってはいるが、ざわざわして、好きじゃない。寧ろ鬱陶しい。


 ああ起きるな、ずっと寝てろ。

 すずしい顔をしてられない。表情で誤魔化せない。どうするのが正解か、わからない。


 またどこかを散歩しているであろう愛人に早く帰ってこいと祈りながら。エルドレッドは平然を装うために、ソファに深く腰掛けて、読みもしない本を捲るふりをして、窓を開けたまま、和解をしろとやかましい風に吹かれながら、氷をばりばりと、噛み砕く。



 まるで曇天である。せめてにわか雨でも降ればいいのに空は停滞していて、外に出ようかためらってしまう雲行きである。その居心地の悪さが彼には不愉快極まりないのだろう。落ち着かない視線が、床に伏した彼女に刺さる。


 一方でユピトリといえば、彼が願う通りに眠り続けていた。傷も痛みも癒えた体は、おそらく名を呼べばすぐに起き上がるだろう。早々にどうにかしてしまいたいのなら、名を呼ぶといい。幼子に大人の事情を背負わせたのだから、多少は大目に見て欲しい気持ちもあるが。


 また、彼女は今小さな夢を見ている。夢なので内容を問われると難しいが、例えば鳥になってビル群の隙間にいるような、他愛も無いものである。


 さして意味は無いが、浅い眠りの中のそれは心地よく、少なくともうなされてはいない。

 彼女は今、幸せだった。



 足音、足音、足音。


 扉が開いて、吹き込む風。

 冷えた床に冷えた風に、新たな悪夢は、きっと充分 愉しいでしょう。


 足音。脳味噌に、響く、足音。


 どうしてこんな、行事ばかり起きるの?

 はて、どうしてでしょう。聞いてみなければ、分かりません。聞いてみますか?僕に。


 ___


 ビル群のなかの、中で、夢の中に。あるはずのない見えない壁。突然世界が白くなって、空がない。亡くなった。さて時の中で、貴方に何をさし上げましょう。ね?


 正体は、幸せを見て眠っている少女のすぐそばにしゃがみ込み、耳元で、囁く。


「「___起きなさい お寝坊さん」」



 あなたの誘いに乗って「何故」と聞くのは簡単でしょう。けれど、もしかしてあなたは意地悪なので、私だって聞くまいと意地を張ってみようかな。


 さて、ユピトリはただの囁きによって夢から落ちた。亡き空に腕を伸ばしながら、鳥から人の姿に移り変わりながら、あっけなく真っ逆さまに落ちていった。


 最中で一羽と一人を思い出す。いずれも自分であったはずだが、今や彼らとユピトリは全くの別人である。それでも悲しみを受け取って声を漏らしてしまうほどには、彼女の心は優しかった。


 息を飲みながら目を覚ます。言い知れぬ気持ちを目に蓄えて、もうすぐで泣いてしまいそうだったけれど。ぼんやりした視界に入った見知らぬ姿に驚いて、寝起きの体は固まった。


「………わ。あの。あんしゃんて…」


 数秒の沈黙の後ようやくでた言葉がこれである。それも、珍しくか細い声だった。

  


 寝起きの割に反応のいい少女に機嫌を良くして、そのまま抱き抱える。所謂、お姫様抱っこ。黙って事を見ていた拠点の主人へ向かって、少女を抱きかかえたまま、声を掛ける。


「ごきげんよう、ロゼ  落とし物ですよ」


「…お前、一人か?」


「いえ、セルヴァンに用事があると言って、近くで別れました」


 会話を続けながら、男は近くのソファに少女を下ろす。下ろすと同時に、わざとらしく微笑んで見せた。にこりと、頭を撃ち抜く衝撃を与えるような、いやらしい笑み。


「ところでロゼ」


「断る」


「まだ何もいっていませんが」


 銀髪の不思議な男は、愉しそうに部屋をうろつく。うろついて、うろついて、ユピトリの方へ向き直る。


「はじめまして お嬢さん

 ネクロです 」


 またわざとらしく、微笑んだ。

 拠点の主人が、はあ、と呆れたようにため息を漏らすのも、致し方ない。



 彼女の思考は単純であるから、たとえわざとであろうとそうで無かろうと、笑顔には心が躍ってしまうのだ。その素直さで命を落としかけたというのにまったく、学ばないのは愚か故か性質故か。彼女は人の忠告を聞きやしない。


 とにかく、彼の笑顔に寝起きの笑顔を返して改めて挨拶をする。側で呆れる彼の心境を知る事もなく。


「ネクロ。私は、ユピトリ。

 ソファまで、連れてってくれて、ありがとう。」


 無抵抗にソファにもたれてしまって、彼女が少し力無く見えるのが分かるだろうか。まだ、いつもの鞠玉のように跳ね回れるだけの活力は彼女に無い。



「気持ちよかったですか 死んだ海は」


 そう言って、ネクロと名乗る男は、質問のような、試練のような。呟くような、ぼやきのような言葉を淡々と空中に投げ、なんと、あろうことか。ソファに体を預けるユピトリの隣へと、割り込むように、座った。


「あなたの方が、無害なので」


 ___無害なので。言い訳のような、後付けのような、適当な理由。おしゃべりは好きなんです。


 ネクロは、仮寝床にお邪魔した謝罪として、ソファに乱雑に片められていたブランケットを、ユピトリに掛けてやった。

 エルドレッドはされるがままのユピトリをチラリと見て、ネクロの方へ視線をやった。


「…ハイエナが随分な物を寄越してな」


「はい」


 ゆっくりと項を戻す研究者は、バツが悪そうに、眉間を触る。


「そこの……、そいつに持たせて、ウチに、」


 口籠る面倒な研究者の言葉を遮って、無機質な男は告げる。


「言えないなら するんじゃありません」


 そう言った直後、研究者は気を失って、ソファに全体重を預けた。


 さて、何でしょう。何だと思いますか。平等にしてやっただけです。こういうのは、部外者がいた方が。審判が。遅れてきた反則級の審判が介入した方が、面白いんですよ。


「騒いで済みませんね

 あなたも 眠りますか。

 それとも僕と、遊びますか」


 男は、無機質な、トゲのない、柔らかくもない声で。疲労の溜まっている少女を、ただ見つめた。



 先生と呼ばれるからには、理由がある。


 研究者である彼は、少なくともユピトリよりも多くの事を知っているのだから、その賢さに雨風に負けないような安心に似た信頼があったというのに。大人があっけなく気を失ってしまえば子供は不安になるしかない。


 ユピトリは無防備なエルドレッドを見てフクロウのように首を傾げる。

 こんなにも、か弱い彼を見るのは初めてだった。


「ロゼ?」


 不意に心細くなったらしい。自分を包むブランケットを握って、ユピトリは雛が親を呼ぶように鳴いてみた。


 世界には、人より早く大人にならなければいけない子供がいるというのに。ユピトリもその一人であって、大人を頼ってはいけないというのに。


 平等なんて、ないよ?


 怯えているわけでは無いが、現状に自信のないユピトリは怪訝そうに隣の彼を見上げた。


「ネクロと、遊ぶのも、眠るのも、なんだか怖い。ロゼは、どうなっちゃたの?」


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