2章 19


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 それからしばらくの事を、ユピトリはあんまり覚えていなかった。

 なんだか生暖かいものを腹や胸の上にかけられたような気もするし、唾液にまみれたものを口の中にねじ込まれて、味蕾を蹂躙されたような気もする。

 この部屋にあるのは、なにかが千切れる音と滴る音、それからテーブルが軋む音だけ。もしかしたら彼の舌をだらしなく垂らした喘ぎ声や、彼女のえずく吐息があったかもしれないけれど、要らないものとしてそれらは静かに仕舞われてしまった。


 たった一度の鼓動の間に、いくつもの気持ちが交錯したような気もする。けれど彼女は、その気持ちの一つ一つの名前がわからない。全てがはじめて、全てがはじめて…

 思い倦ねたその中には、乾いた紙を破くように容易く失われてしまったものもあって。例えば彼女が彼に向けていたもの、その長い髪が綺麗だなとかそういう気持ちとかもあって、そのあとの空いた穴には別のものが埋められていく。それもでたらめに。散らかったまま。


 目の前の恐ろしい獣に押さえつけられているのは、からだか、こころか。

 変えられていくのは、からだか、こころか。

 一体。


 ただ、分かる事といえばこれが何かマズイことであるという事。ユピトリが必死に握りしめている逸見の腕は、爪が突き刺さって赤い糸のような血が滴っていて。その腕の先は彼女の舌に続いていて。

 今、ユピトリは泣きじゃくりながら、逸見の血を注がれていた。


 美味しくない。美味しくない。だけど甘い。だけど甘い。

 代わりばんこにやってくる優しいものと優しくないもの。大体の甘さは偽物なのだけど、あまりにも彼の血が彼女の舌に苦いものだから、あと少しで消える飴玉の優しさを求めて探して、舌を跳ねさせて溺れていく。侵されていく。


 ああ、上手に気持ちがまとまらない。

 元々一度に多くの事を考えるのは苦手だったけれど、ついに脳みそが熱暴走を起こしてしまう。細胞や神経が焼け溶けはじめて、そのうち彼女は考える事をやめてしまった。それで彼の、逸見の腕を一気に咥え込んで、食い千切って飲み込んでしまった。


 その頃にはもう人らしい姿はどこにも無かった。そこにいるのは二頭の獣だけ…

 白っぽい大きな獣は掠れた悲鳴を上げた後、開かれたままの扉を横目に見て、次に彼を見て、体を大きく捻って突き飛ばした。



 既に頭は熟していて、身体は熟していて、目もすっかり視えていた。

 彼は彼女をひと刺しした時から、それより前から。。とうに頭が切り替わっていた。あれは地下へ連れ込んで彼のしたいことをして、それでも本人より理性が備わっている彼は、後始末をつけてから、彼へと戻る。


 _トリガーは自傷行為。研究者ロゼの拠点へ向かうまでは、専ら自傷行為に及んでいたせいか、人格が常にぶれていた。治りきらない傷を穿り返すのを愉しみに、僕を背負って自拠点へ向かった。僕が彼女と話していたあの間、彼が何をしていたかは、言うまでもない。


 _2つ目のトリガーは、命綱は、関門は、ネクロ・ネヴラ。僕を側に置いておくと大人しい。腹が抉れている状態でも他人に手を出そうとしない。女を攫わない。衝動はあっても、事に及ばない。


 _これらをひっくり返すイレギュラーが、ツァラ・セルヴァン。

 これが非常に厄介で。臓器を引き摺り出されて撫で回されるような気持ち悪さと心地よさで、それまでの秩序が全て解かれる。失われてしまう。


「それでは 答え合わせです」


 2つ目のトリガーが拠点の廊下を歩く。ゆっくり確実に床を靴裏に合わせて、彼ではない者の手を引いて、向かう先。地下。制御室で古い機械にCDを挿入して、音がかすれたクラシックを館内に響かせながら。


「僕がわざとクニハルと離れたあの時。ロゼの拠点へ着く直前。あれで外れました。」「わざと、外させて、女に」「ユピトリに 合わせました」「ねえ 聞いていますか」


 地下へ続く扉の前で立ち止まって、振り返った。難しそうな顔をしたヴァイスは、“いいえ“と、中身のない返事をした。


 開かれた扉から人工的な灯が漏れる。部屋の入り口直ぐ側にいる獣を見下ろしても、ネクロは表情を変えなかった。それまで手を引かれて後ろを歩いていたヴァイスがネクロの前に出て、先い階段を降りた。放した反対の手には、逸見の刀。

 ヴァイスはユピトリの前に立つ。奥に見えるのはきっと彼。腕から大量の血を流して、背中を強く打ったのか、頭を打ったのか、下手な呼吸が聞こえる。視線を前の獣に戻して、青紫色の唇で言葉を紡ぐ。


「おれのほうが 美味しいですよ」


 ヴァイスは言葉を発すると同時に衣服のポケットに入れていたいくつかのガラス破片を、ユピトリの前で握り締めた。手を開いて、がラス破片が落ちた。真っ赤な血が手首へ、腕へ、肩へと流れる。手をひっくり返して掌を見せて、首を傾げ、機械のように笑みをつくった。






 月日を重ねて褪せた荘厳な音と、灯りに反射しながら落ちるガラスの音、砕ける音。

 滴る痛みと造形的な笑顔。

 実に人の脳のつくりは面白いもので、関連性のないものをいくつか提示すると努努それらに繋がりを見出そうとしはじめる。ちぐはぐで、バラバラで、合わせる気もないパズルのピースを無理やり捩じ込もうとしはじめる。


 けれど当たり前のことなのだけれども、仕方がないことなのだけれども、やはりどう頑張ろうと合わないものは合わないのである。綺麗なものには仕上がりようが無いものである。それでもなお安寧や平穏の形にしようと思うのならば、一層ささくれ立ってしまうだろう。

 腕に自信があるのならば別だけれど。


 そういうわけで今日益々荒れていく現場は、聡明なもの程残酷性を持って見えるはずだ。事実ユピトリも豊かな心の中で多くの矛盾に悶えていて、今この場の目を全て集めた彼の事が一瞬、何が何だか分からなかったほどである。


 腹ならばとうに満たされているというのに、慰めの味に甘えたい。演出家の彼をおどかしてすべてのシステムを止めてしまいたい。そうしたら消失を伴って、日常がやってくるだろう。波立つ海は静かな港に戻るだろう。


 けれど今回の予行練習は、とうに終わっている。美しいもの、汚いもの…入り混じったそれらの中の出来事はここにいる誰よりも、遠方にいる高貴な目をしたも者がよく知っているでしょう。結末は不器用に気の利いた事をしようとする者がよく知ってるでしょう。

 覚えていてくれているならね。


 足踏みをしながら首を何度か不随意的に傾けたあと、ユピトリは呼び声の元に歩み寄った。次に彼の意図にくちばしを擦り付けたけれど、舐めはしなかった。かわりにそれを首筋、耳の後ろあたりに押し当てて…噛んだ。

 あまり痛いことは好きではないので、所詮彼女ができる事といえば柔く食む程度だけれど、仕返しの意味を含んだその行為はどこかの誰かさんの真似である。捕食とは違う、警告のような、抱擁のような。

 日の下を知らなさそうな青白い肌が、べたべたと汚れる。


 彼女はただの鳥なので、この後に空の世界を見せてやることも鈍い部屋の色を黄昏に染めてやるだけの力もないけれど。まぁそれは追々見ることができるでしょう。

 先ずは背後の獣と横の傍観者を睨める。それからなんだか死を望んでいるようにも見えた彼の襟元を咥えて引きずるようにしながら、ユピトリは来た道に足を向けた。あまり時間が残されていない心地に、少しの焦燥を感じながら。


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