3章 25


 舞台は劇場。地下室。

 だいぶ立ち尽くして、要らない感情をゴミ箱に入れた。暗い辺りを見渡して、瞬きをする。シャッターを切る。一拍置いて、空いたままの扉を通り、血の跡が続く階段を上がる。物音。


 上がって少し足を進めた所に倒れている、ヴァイス、ユピトリ。を庇うようにロストと闘うレノ。まあ。電源を入れ直すでも、助ける訳でもなく、視界に入れた。視界にいれて、見るだけ。やる気がまるで起こらなかった。


 何をそんなに護る必要があるのかと、なぜ彼らなのかと、口から溢れそうになった瞬間、レノが闘っていたロスト達が血をぶちまけて一瞬で灰になっていった。

 ああ、きた。どっち。そっちか。フリのほう。


 それでも溢れ出したヴァイスの魔力に引き寄せられてやってきた大勢のロストを次々と斬り刻み、繰り返し、大量の血を浴びた逸見がネクロを振り返る。


「ネクロ!」


「…………もういいんですか」


 ネクロは片方の手袋を外して自らの首輪に触れ目を閉じた。

 大きな電流が見えたと思った途端、入口の扉が勢いよく閉じられ挟まったロストの体が二つに割れる。館内の照明が元に戻り、その場にいるのは切れ切れで立ち尽くすレノと、血塗れの逸見、首輪を整えるネクロと、横たわるヴァイスとユピトリ。


 レノが息を整えながら、沈黙を、破った。


「悪い、助かっ____、は?」


 レノの腹に勢いよく突き刺された、逸見の刀。

 レノは状況を整理できず、刀が抜かれるのと同時に床に音を立てて倒れた。


 逸見は再びネクロの方に、いや、倒れているユピトリを振り返って、刀の血を払いながら歩いて向かう。逸見はヴァイスになど見向きもせず、ユピトリのすぐ側すれすれに刀を突き刺した。


「起きてはやく 起きろ さっさと起きろ 殺す 殺す起きろ!殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す!起きろ!殺させて!」

「……………」


 館内の電源を全てつけたネクロは、彼らのすぐそばの階段に腰掛けて、ただ一部始終を見つめている。ユピトリの、隣の彼。影が消えかけているヴァイスを視界に入れながら。


 白いミルクの波に飲まれる君。

 真っ赤な血の波に飲まれる僕。


 ちゃぷんと、強い流れがたまにくる。それでも二本の脚でしっかり立って、目を開いて、ニッコリ笑って、「何ともないよ」って言うんだろう。ああでも僕らは、元々定義される人間の脚なんて、あったかい?


 嫌味を吐いて笑みを作ったあと、続いた沈黙に表情を戻す。

 セオリーならばこの空間は勝手に壊れて、現実へ戻れる。しかし。


「はて。」

「ねえ、彼女。困ったな」

「どうして戻れない?」


 飛んで行ったユピトリにも聞こえる声量、ではなく、声が反響する空間。

 行っても行っても、終わりのない空間。繰り返し。


いいことを教えてあげよう」

「ここはね、主人が望んだこと以外反映されない」

「君の腹も、治ってるはず 見てご覧」


 帰れないことを退屈に思った男は、退屈しのぎに水を生み出して、凍らせて、遊び始めた。ヴァイスに被せた自身の上着を捲り、全貌を見る。ふっ、と。笑いを

 溢して、大きく笑う。


「ハハ、ハハハハ!!!!!

「    ダメだよ花なんか 咲かせちゃあ」


 男は甘く殺していた彼の、ヴァイスの胸に手を突っ込み、心臓を鷲掴んだ。

 傷口に咲く花と心臓を雑に摘み取って、凍らせる。凍らせた心臓を粉々に砕いてから、天を泳ぐユピトリに "凍った白い花"を掲げた。


「 僕は"ノース"」

「そっちの悪性プログラムに よろしく」


 辺りが白く、酸素が薄くなり始めた頃。嫌味たらしく笑んだ男の姿は消えていた。



 やがてここは、全てが無かったことになる。忘却の象徴となり、悲哀の代名詞となる。

 冷えきって落ちた夢は、二度と陽の目を見る事がない。あなたが呼んだ幻日も、もうすぐ全て海に飲まれていく。

 その時、水浸しのここに砂が落ちて、浜辺ができていた事、夕日を眺めていた足跡がそこに残っていた事は、誰にも知る由がないけれど、求められたら教えてあげようね。


 ______________


 舞台の幕のように垂れ下がる黒髪を、殺意の刃諸共鷲掴む。引き千切る。彼の喚く声がするならそれは彼女が現実に戻ってきた証拠となるし、手を切る最悪な痛みにユピトリも現実に

 帰ってきたことを知る。

 ...相変わらず、見渡す限り惨状であるが。何処もかしこも、あなたが歩いた道は特に。


 あなたにとって、逸見にとってその黒髪はどれほど大事なものなのだろう。少なからずこの惨状の中でも映えるほどに手入れしていただろうものだけれど、彼がそれに何か思う前にユピトリは飛び上がって彼の顔に掴みかかり、目にくちばしを突き立ててる。抉り食う。

 甘くない、苦くて渋いだけの鬼の血肉。水風船のように弾けた目玉からは、三十六度の果汁が溢れる。

 それを飲み込んで喉を潤した彼女は彼を掴んだまま、喉の奥を見せて甲高い怒声をあげた。

 到底小鳥とは思えない声。


 発狂、それか錯乱。いや違う。これらは全て明確な意思を持っての行動で、瞳の奥は妙に落ち着いて腰まで据えている。なのに四肢を投げ出してぎゃあぎゃあと騒ぐ様子は...

 ただの八つ当たり。

 夢から命辛々逃げ、言葉にできない大敗を見せて、ひどい憤りに任せた心が彼の頭の中に轟き、そこから漏れた音が館内に響く。けれど血を出して伏している彼や一部始終を鑑賞している彼には届かないのだろう。なんせ彼女の心は彼女自身にも届いていなかった。


 加速的にこころとからだが変えられていく感覚。蛹の中身のようにどろどろに溶ける心地。

 不意に強烈な飢えと渇きに襲われて、ユピトリは逸見を手離して狼狽えた。そして自分の顔を抑える赤い手が、ここに立ち込める匂い、堕鬼の匂いに似てきていることに気づく。


 辺りに転々と咲く白い花。騒ぎの中に舞ったものがまた芽吹いて彼女の足跡を残してくれているのだけれど、それでも彼女は一途にあおいそらを想い続けるのだろうか。目指し続ける

 のだろうか。

 本当のあおいそらなんて、知らないくせに。


 ゆらり、とユピトリはヴァイスの方を見る。消えかけている影、砂の絵が波に消えるように、彼はこのまま消えてしまうのだろうか。


 無償の奇跡が起きたりなんかしないかな、なんて都合の良い夢を見たりなんかしながら、ユピトリは一文字ずつ許しを乞う言葉を紡いだ。というのも、今からしようとしていることが良いことか悪いことかがよく分からなくて...

 肝心な時に、大人はそれを教えてはくれない。まるで頼りにならない。


 でもあなたが私を呼んだのは、そういうことでしょう?だから、

「あなた、に。私、で。ごめんね。」


 這いずって彼に近づいて、力無い腕で抱きしめる。氷点下の体温が痛く寂しくて、具合の悪さに独り言を漏らす。それから夢でそうしたように、火傷の跡や首や耳元を舐めたり頬擦りなんかして、最後に鼻先を甘噛みして、彼を"あいじょう"で満たして。その意味がなくなる前に、彼を食った。


<< 25 >>