3章 22


 ぎょろり。


 赤々赤々あかあかあかあか赤、赤。真っ赤なビー玉。眼。


 主人目掛けて這っていた者たちは進行をやめ、彼女を振り返った。

 滴る水音も吹き抜ける風の後も、床に落ちた本も、音をやめた。

 "彼女に反応した"。音が、現象が、物が。


 それの名を口にすることによって、彼女はこの世界に顕現した。


 啜り泣いて響いていた声は止み、蛇達同様、暗闇から彼女を振り返る。

 ぺたんと地べたに座り込んで、そちらを向いた目に光はなく、白い睫毛に覆われた水色の目が、だまって彼女を写している。浅く息をして、酷くゆっくりと瞬きをする。すると、真っ赤な目をして彼女を見据えていた一匹の蛇が鍵穴へ

 と入り込んだ。


 カチャン。


 鍵は開き、蛇や蚯蚓は進行を再開する。

 彼女、ユピトリを避けて、主人へと向かう。

 時折、水色の目をした蛇蚯蚓が彼女の目をじっと見てから、主人へと入っていく。まるでなにかを訴えるような、水色の目だった。


 彼が彼女を呼ぶ。

 半身に大火傷のあとをのこして、

 あがらない腕を必死にあげて、

 枯れ果てた声をあげて、

 治らない首元の傷を遺して、


「____たすけて」


 一方、劇場。


 監視 管理 制御、一切の防御の無くなった拠点に、次々とロストが入り込んでいた。高い塀に囲まれているお陰で、侵入経路がロビーの正面入り口しかないのが幸いしたが、相当な数だった。そこで、一人の男が大量のロストを相手に戦っていた。


「ーーーっネクロは、イツミは何して...っ!」


 ____数十分前、ネクロに眠らされてから目を覚ましたレノは、異変に気付いてすぐに監視室を出た。照明は付いておらず、物音がしない。忙しなく稼働していた機械が、一切の動作を辞めている。急いで階を降りてロビーへ向かうと、倒れている影を見た。ヴァイスと、彼女だ。ロゼのお気に入り。俺がアレを押し付けた相手。


 数秒立ち尽くしていると、入り口の方から呻き声がした。


 二人を移動させる暇もない。片方は守ってやる義理も全くない。

 偶然隣にヴァイスが転がってたから、偶々だ。これは。


 レノは独り言を言って、小さくため息を吐く。


「あの時見捨てたのが、今響くか......」


 大槌を構えて、練血を発動した。



 彼が、ヴァイスがなにか言っている。


 深く息を吸って、吸って、吸って、もう肺の中に空気が入らなくなった時のような静けさの後。誘われるようにユピトリは扉の向こう、幽霊のように擦り切れた彼の前まで。

 消え入りそうな匂いを嗅ぎながら。

 渇いた目元の塩味を想像しながら。

 歯応えのなさそうな細い腕を見ながら。

 幼い夢をこころに留めながら。

 ゆっくりと足を進めた。


 隙間風が彼女の前髪を揺らす。それを指先で軽く撫でてからユピトリはしゃがみ込んで、上がらないその腕を取って彼を抱きしめた。


 剥き出しの肌が触れ合って、体温が混ざり合う。

 きっと突然のことで驚いてしまって、彼は目を瞑っているかもしれない。獣の妙に高い体温に、具合の悪さを感じてしまっているかもしれない。

 それは彼女も同じなのだけれど、彼女は目を瞑りたくなるような火傷の跡や首元の傷を舐めたり頬擦りをしたりして、独り言のような鳴き声を漏らしたりもした。


 それがユピトリの精一杯の“あいじょう“で、言葉が下手くそな彼女なりにあなたに伝えたいことだった。


「あのね。私、は。…願い星じゃ、ないの。」


 彼女が、ユピトリがなにか言っている。


「あんねい、あなたも、私も、探してる。


 ほんとは、たくさん、難しいのに、私。


 ヴァイス。私も、も、言いたかった。おなじこと。あのね、あのね、いっぱい怖いの。」


 抱きしめたまま、彼にしか聞き取れないような内緒話。こんな時、遠くの不器用な彼ならどうやって言葉を見つけてくるのだろう、ね。


「一緒。私たち、似てる。ねぇ、ねぇ。ヴァイス。あのね、ヴァイス。


 私も、あなたに、呼ばれたい。」



 暗くて、寒いのに。暖かかった。

 正確には、停電の中見つけた光源のような、ほんの一握りの希望。

 あなたがそうでないと言っても、自分はそう感じてしまった。

 それ以上のわけが、今。必要だろうか。

 くらやみのなか目を閉じて、あたたかい光と混ざり合う。

 彼女の声を子守唄のように耳に流し込んで、こころに落とす。

 見えざる未来があったならば、おれは笑えているのでしょうか。


 へびもみみずも大人しくなったころ、

 彼の口が彼女の名前の一文字目を作ろうとした頃。

 二人のものではない、声と 音。


「過去で何をするつもりだい、クラウィス」


 声。少し前に聞いた、看守の声。空きっぱなしだった扉にもたれ掛かって、聞いたことのない姓を呼んで、そこに立っている。顔は鎧に覆われていて、よく見えない。


「本来ならもう直ぐ君には燃えながら地上へ堕ちてもらう手筈なのだけど

 困ってしまうね、僕も ___忙しい。」


 ユピトリを挟んで一方的に会話が為される。ヴァイスはなにも言わず、彼女に体を預けて目を閉じている。しかし当の彼の鼓動は態度と裏腹に、たしかに、はやくなってきている。


「ないアタマで かんがえました。彼女は、__」


「運搬者。で 君は、特効薬」

「………………」


 一方的な言葉に眉を顰めるヴァイスを視界に入れながら、看守は今度はユピトリに向けて話す。


「君も彼に言ってくれ。僕は今とっても忙しい。今すぐ帰して貰わないと、逆上して君たちも捌いてしまうかも。」



 飽和を超えた糖や毒の中、切磋と琢磨を繰り返し薫陶される過程の最中にまだある彼ら私たちが行く末の形は、一体どんなものなのだろう。絶対的な神か、据える王か。

 孕む呪いに苛まれながら象るものは、何か。また刮目して畏まるものは、何か。


 さて、あまりにも物騒なことを言う、顔の見えないものに言い返してやろうかと思った時。不意にユピトリは柔らかい草原の上や日当たりの良いベンチを思い出して恋しくなり、言おうと思ったことを飲み込んだ。

 代わりに一層に彼を抱きしめて、もう一度彼の焼けた頬を舐めてから「風が寒いね」と耳を塞いだ。


「…ふふ。」


 今の声はもう過去には届かないなんて、そんなの舌や喉を手に入れた彼女がよく知っていて。どれだけ呼ぼうと叫ぼうと、それは灰になって星の上よりも彼方に行ってしまって、手を伸ばせども届かない。羽ばたけども届かないのをよく知っていて。


 だからどんな事を言ったところでもう手遅れ。そして格好が悪いものだ、ああすれば良かったこうすれば良かったなど、御託を並べて擬似的な歴史を語らうのは。それに大体そんなことを言うものは蚊帳の外、自分が危ぶまれない、絶対的な安全圏にいる部外者なのである。

 しかし彼女は、もはや知らんぷりでいられないものになってしまった。


 それが、乾いた笑いを返答にした理由。

 お前に答えてやるものか。答えて、やるものか。


「ヴァイス、ヴァイス。」


 あの時あなたのことを美味しそうだと思ったのは確かで、美味しかったのも確かだった。中身は煙で立ち込めていて、なのに空っぽで、いろんな色が混ざり合っているのに無色。透明にもなれない臆病さもあって、つまり形容できないものがあなたの色。

 それで、あなたと私は同じなんだと思った。前を向いてしか生きていけない私と、いつまでも泣いているあなたと。


 本来はもっと辿々しく幼い言葉であるが、わかりやすくするとこんなものだろうか。


「…おいで。」


 塞いでいた手をほどきながら、細い手を取りながらユピトリは立ち上がり、次はちゃんと背中に乗せて出口へとつま先を向けた。


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