4章 40



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 そこは、グラスのフチを撫でたような音で満ちている。

 そこは。愛に溢れていたかもしれない。


 そこは、磁石と磁石の間みたいになっている。

 そこは。平和に着いたかもしれない。


 そこは、貝の絵の具が混ざり合っている。

 そこは。お腹がいっぱいだったかもしれない。


 そこは、ぬれた画用紙みたいに滲んでいる。

 そこは。大空かもしれない。


 そこは。幸せだったかもしれない。


 ここからあそこまで、おもゆのような光が、肌におりては砂のようにおちていく。


 おおきな。ほんとうにおおきな、真っ白なそこは、あとにもさきにもここしかありません。


 そこにあなたやわたし、君や僕が、一生懸命にスプーンで心をすくってばら撒いたら、きらきらとひかって、満点の星空ができあがります。


 ここは宇宙みたいにどこまでも広がっているものですから、さらさらとながれて落ちつづける光に、星は暗くなってしまいます。


 親指と人差し指で作った眼鏡を覗くと、そこに将来の夢が見えます。座り込むと、ここに無くしたものが見つかります。


 そこは、足がつきません。ここは、手が届きません。花が咲きます。雲があります。水があります。空気があります。


 黄金の夏、白銀の冬、青い春、紅い秋。豪華な落書き帳にみえるそこは。


 そこは、なくした絵本の一ページでした。



 雲の一端に、足を揃えて座っていたXiは、そこで伸びている彼へ謝るべきか悩んでいた。


 蹴り上げたのは、やりすぎただろうか。別に蹴り上げる必要はなかったんだ、ではなぜそうしたかと言われると。格好をつけてみたかっただけ。

 …いや。理由はいくらでも、言い訳や後付けはいくらでもつけられる。例えば、そういう鳥なので獲物を、特に蛇にはそうするのが道理だとか。今までの仕返しだとか。気持ちの裏返しだとか。


 どうしたものか。どうしようものか。…

 Xiは手元の、湿気を含んだ芝生のような雲を、つねって摘んだ。それを慣れた手つきで編みはじめる。


 さて、この下では今、大雨が舞っている。暴風が吹き荒れている。雷が吠えている。が、そんな嵐、教わらない限り気がつけないでしょう。それほどにうるさい静けさが、辺りに沁みている。


 音を、振動を、光を取り上げられた場所で、きっと目覚めを忘れるほど心地のいい居眠りができたかもしれない。できなかったとしたら、どうしようもできない、別の事のせいだろう。


 澄ました風に、Xiは口を開く。


『私たち、我々のこたえを、こたえが。毒蛇の君、あなたには、何が見えますか。』


 と、出来上がった雲の冠を彼の頭へ投げかけた。

 それは、彼らでいうところのコーヒーや水、もしくは血。さながら白詰草の花輪のような冠は、彼の鈍い髪色にまあまあ映えるだろう。


 Xiは続ける。


『さて。空と海とでさえ、繋がります。なので、あなたにも出来るんですヨ。千の風の上では、それができてしまいます。ここは、そういうところなんです。


 それで…生憎、彼女があんまりにも泣いたものですから、もう半分しかありませんが。公平にはなるでしょうカ?

 この忘却された夢は、あなたの最期か最初のピースになり得ます。毒を一つ、お返ししますネ。』


 静かに立ち上がり、彼女は彼の元へ近づく。ゆっくりとしゃがみ込んでまた雲を…一輪の白詰草を摘み、その細っこい茎を彼へ静かに刺した。


 刺された一瞬は、注射より痛くは無いでしょう。けれど注射される前は、怖いものです。

 彼女が彼へ与えた痛みはその程度。問題はその副作用なのだけど、彼女にとってはそれは問題ではない。


 だから謝罪の言葉は一つだけ。彼の髪を撫でてから、Xiは再び、今度は足を組んで座り直した。


『命を。いくつも持つというのは…………いえ。


 今、地上では獣が何頭か彷徨いています。あ、試練とかの話では無いですヨ。

 ただ、あなたは弱いですので、食べられること間違い無いでしょうネ。

 なので、ここでおしゃべりでもしていましょう。』


 片方の眉を上げて、薄く笑みを浮かべて。その表情が何を意味するか、今の彼にならなんとなく分かるはずでしょう。鳥の気持ちになって、お話をしてみましょう。


 その頃、地上では獣のうちの一頭が目を覚まして、廃公園の、草むらに隠れていた虫を捕まえて羽を取ってみたり、指で弾いたりをしていた。


 だって。なんだか心が、むしゃくしゃしてしまっていてたまらなかった。


 理由はわからない。分からないし、分からないからどうしようもできない。それに、大して困ったことでは無いが、翼が伸びない。翼が無いのだ。


 多分、この喧しい気持ちのせいだろう。初めて味わうような、この気持ちのせいだろう。

 最後がいつだったか分からない。なのできっと今日が初めての死に戻り。だから混乱しているだけだろう。


 そうでしょう?そうであってほしい。


 水溜りを踏み潰してみたり、遊具に登っては飛び降りてみたり、砂場で川を作ってみたり。体がくたくたになるまで、疲れ果てるまで遊んで、遊んで、遊んで、擦り減って、雨漏りのするテントの中に仰向けに寝そべって。


 ユピトリは右手で頭を抱えた。



 やかましい。べらべらべらべら、べらべら。だからなんだと言うのだ。それがどうして、そうなって、それで、だから何?人が寝ている隣で、気まぐれを装って、うかがって、唾をつけるな。男は上半身を起こして、目覚めの悪い頭を耳から水をだすように叩き、具合の悪い左目を瞼の上から擦った。心底鬱陶しそうな顔をして舌を打った。


「鬱陶しい」


 たったひとこと。その他の選択肢も、すべて"鬱陶しい"だった。どんなに頁をめくっても、引き出しをひっくり返しても、鬱陶しい。それしか出てこなかった。


「死ね」


 出てきた。勘違いしないで欲しい。左目の具合が悪いのは電波がないからであって、操られているとか、そんなものじゃない。これは間違いなく本人の意思である。物語の覇者も作者もいない。皆平等に、不平等にたいせつな舞台装置である。


「こんなものを寄越したって、何にもならん」


「いらん」


 人って思ったより思い通りに動かないし、動いてくれない。動いて欲しいなら、自分をもう一人作るべきだ。でも、もう。いまはなんだって、無意味だ。要るものしか要らない。要らないものを寄越されて、どうする?捨てる。使わない。動いて欲しいなら、どうにかなって欲しいなら、影に頼るべきだった。胎から出された鳥に嫉妬して、正直になればよかった。回りくどいのだ。回りくどくて、鬱陶しいのだ。なす術がないから、こう言っている。棘を投げている。


「他人に期待するな」



「Nevermore。」


 およしなさい。


「Nevermore。」


 あなたは弱いのですから。


「Nevermore。」


 祈りなさい。


「Nevermore。」


 それは愛になります。


「Nevermore。」


 ……………

 ………

 …


 こだまして、鳴き声が重なる。

 彼の苛立ちの言葉を真摯に受け止めて、コマドリ探しをするために刀を抜こうと一度は思ったが。ひどい言葉を続けた彼が、どこか怯えているようにも見えてしまって。

 それもそうだ、ロマンスっていうのは弱虫がするものだし、ロマンチストの彼には言葉でしか身を守る術が無い。


 けれどここは、やっぱりあおいそら。空に唾を吐いたって自分に降りかかるだけで、唾の雨に打たれて浮き彫りになっていくものに恥を覚えてしまうものです。


 彼女は、彼にそんな辱めを受けさせるために真実を教えたわけではないはずだ。それに、やはり今更、期待なんてしていないんだ。おかしさはあっても、そんなものは最初から無かった。

 というのは嘘だけれど、男も女も境界がなくなってしまって、岩は砕かれてコンクリートになってしまった今日では、神は死んだと言われたって、疑えない。


 それじゃあ一体何が本当で、ほんとうのさいわいは一体なんだろう。


 Xiは続けて、「Nevermore。」と鳴くだけ。手に入れた人の言葉を鳴き続けるだけ。

 その表情は憐れみを含んではいない。ただ、行方知れずの影の一つとして、消息不明の彼を眺めていた。


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