5章 45


 ジズは振り返らず続けた。


「名前はニア。それじゃあ試しに呼んでみるといい。ボクは機嫌を損ねているから、キミの奇声を聞いたさっきのばけものの残党が襲ってきても、助けてあげないよ」


 喋るのは嫌いではないらしい。傘の持ち手をくるくる弄んで、ビニールが雨をはじく。


「キミは精肉工場の機械だ」

「ボクは専属のそうだな ニワトリだ」

「機械のキミは卵を次々に割って、ボクの卵も何食わぬ顔で割った」

「ボクは自分の産んだ卵が壊されて、悲しんだ」

「でもホンモノのボクらの昨日の朝食は、蒸し鶏だったり目玉焼きだったりする」


「どうってことない キミがボクの孫を食ったって」


 ジズは立ち止まって、傘を閉じて振り返った。

「なあ」

「キミが食ったのは、キミと同じ形をした"人間"だ」


「自我はどこにある?」


「キミが記憶のないふりをしているなら、今。ここで死んでくれ」

「どうせ糞になるボクの孫を本当に覚えていないなら、雇い主を吐け」


 殺気立って襲うでもなく、走ってくるでもなく、そこに立っている。


「なんでここまでって思うだろうが、キミは運がなかった」

「ジジイ鶏に見つからなかったら、良かったのにね」


 ジズが閉じた傘の先をユピトリ目掛けて構えると、ユピトリに対して、強い向かい風が吹いた。風は止まぬまま、傘の先を地面に下ろした。


「言い訳があるなら、聞かせてくれるかい」



「え。…え?」


 ユピトリは、背中のあたりが冷たくなった気がした。

 髪の毛が揺れる。飾っていた花は、頼りなさそうに髪にしがみついたが、ついには力尽きて落ちてしまった。

 花は、くるくると回されながら、雨水に流されていこうとする。ユピトリは、それをどうしても拾うことができなくて、立ち尽くしていた。


「え。…………。」


 いくら思い出しても、本当に誰かの家族や、そもそも人を食べた覚えなんてない。

 もしかしたら、言葉を教わるずっと前に食べていたかもしれないけれど、それは堕鬼だったし、やはり誰かを食べたなんて覚えていなかった。


 困ってしまって、ユピトリはジズを見る。

 食べたことは思い出せないけれど、代わりにヴァイスを思い出す。それは匂いだけのせいじゃない。彼に面影があるからだった。

 先程の言葉と合わせて点と点が結びついて、もしかして、とユピトリは気付いた。


「ジズ、は。ヴァイス、の。…家族?」


 それなら尚更、食べた記憶なんてなかった。

 友達を食べるなんて、そんな酷いこと。するはずがない。するはずがない!


 それに、

「だって、ヴァイス、は。走って、どこかに…」


 そうだ。行ってしまったんだ。傷をくっつけたら、彼はどこかへ走って行ってしまったんだ。


 行ってしまった後のことだって、ユピトリはよく覚えている。

 逸見がやってきて、彼に脇腹を刺されて地下室に連れて行かれたこと。同族の彼の血を飲まされて、血に乾いてきっとどうにかしてしまったのだろう。気を失ってしまって、次に目を覚ましたのは寂しい部屋の中だった。

 ネクロが介抱してくれていたのだろうか、脇腹や渇きは治っていて、冷たいシャワーに打たれていたのを、彼女は覚えている。

 漠然と、心に喪失感や疲労感はあったけれど、地下室での出来事は、思い出したくないほど恐ろしいものだったので、そのせいだろうとユピトリは考えていた。


 だから、本当にヴァイスを食べた記憶なんてなかった。


「…………ない。食べて、ないよ。

 私、ヴァイス、のこと。食べて、ないよ!」


 ぞくり。

 言い切った瞬間、ユピトリの体が震えた。憤りや高揚、雨の冷たさのせいではない。

 ほんとうに?と、自分の心に尋ねる声がしたからだった。


「…………。」


 もしも。もしも例えば、ジズの言うように自分の自我が別の場所にあったりして。

 私は、本当の私じゃなかったりして。私じゃない本当の私が、ヴァイスを食べてしまって。

 それは、別のどこかを歩いているのだろうか。知らないことをしているのだろうか。


「私。私。は。…ユピトリ。」


 ほんとうに?

 ほんとうにあなたはユピトリで、ユピトリはヨタカの女の子で、ユピトリの名前はユピトリのもの?ほんとうに?

 手も、足も、くちばしも、つばさも、目も、模様も、尾羽も、髪の毛も、肌も、全部ユピトリのものなのだろうか。ほんとうに?


 声が、心に問いかける。

 ずっとずっと前。ユピトリがユピトリになる前。その時から、あなたはユピトリだったのだろうか。ほんとうに?


「…………。」


 所詮、記憶なんてそんなものだった。

 整合性がなくたって、散って欠けてしまったって、水よりも形のないものですから、案外ちょうどよく辻褄を合わせられてしまう。大地のように続いているように見えるのは、そう見えるだけであって、本当は雲のように途切れていることだってある。だから夢なんて無かったことにされてしまう時だってある。

 ユピとトリも、ヴァイスも。みんな同じ夢。奪われてしまった同じ夢。


 二、三目を泳がせてから、俯きながら彼女は彼の表情を見た。

 きっと何一つ変わらない表情。ああ、ヴァイスも、こんな感じだったなぁ。


「私が。ユピトリじゃ、無かったら。誰が、ほんとうのユピトリで、それじゃあ、私は。誰なんだろう。」


 はじめは弱々しいものだったけれど、だんだんと、いつも通りの声色になって、ユピトリは尋ねた。


「ほんとうの、私が。ヴァイスを、食べてしまったなら。今の、私、は。ユピトリじゃ、ないのかな。だって、ほんとうに…食べて、ないの。覚えて、ないの。


 ほんとうの、こと。言うと、ね。私、私なんて、分かんないの。生まれた、理由。分かんないの。

 ので、ごめんなさい。言い訳。ニア、が、見つかるまで、に。考えさせて。」


 それが、精一杯の延命だった。


 花は、行き先と反対の方へ、ずいぶんと流されていた。彼女はそれを拾いに行って、次は落ちないようにと、牙装のボタンのあたりにしっかりと結びつける。

 再びジズの元に戻ってきた彼女は「行こう」と、彼の目指す場所へ足を進めた。



『そうかい』


 言い訳にしか聞こえない長い長い鳴き声に、たった一言で返事を返した。

 ぐずぐずになった靴の底を気にかけて、目線を下にやる。やはり口角は下がってはいなかった。

 

 雨の染み込んだ土の匂いがする。傘の先を土に刺して歩く。踏み込んだ足先に水気を感じる。遠くに知る気配がある。鼻の奥がつんと痛い感覚がする。


「自覚って知ってるかい」

 

 そう告げた直後、辺りは一面雪景色に変化した。

 構わず足を進めると、靴裏がざくざくと音を鳴らしている。


「知的探究心の対象になる自覚をしなさい」

「自分の腹中に、目の前のジジイの孫の残片があることを自覚しなさい」


 ジズはそう言って、道中に咲いた花に積もった雪を退かせた。

 そう言って、雪を拾い集めて雪玉を作った。


「キミの腹の中の残片が湧き上がる可能性を自覚しなさい」

 そう言って、雪玉を遠くへ投げた。


「ボクがキミの中の残片を湧き上がらせる可能性を、危惧したほうがいい」

「ボクがキミの味方ではないと、いい加減認めたほうがいい」


 ジズは変わらぬ調子で足を進める。


 傘の先を雪にさして、歩いた跡を作る。傘の先を雪に沈めて、歩いた線を描く。

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