5章 46


 ふと、天空から指揮者の獣が生まれ墜ちました。指揮者というのは、それが額にある一本のツノを振るうと、雷が大太鼓を叩き、風が弦を弾くからです。


 これは、ナイショのヒミツなのですが、雨や風にも、実は心があったのです。

 雨は、いつかはわたしのための祈りでした。風は、いつかはあなたのための祈りでした。

 天原から落ちる水は、全てに等しく恵みをもたらし、雲の吹く風は、全てを等しく押し流します。わたし達を、あなた達を。

 

 あるがままに、成すがままに。

 それらは普段、わたし達の目には見えません。親指と人差し指で作った眼鏡を覗き込むと、もしかしたらそれらの姿が見えることがあるかもしれません。もちろん見えないこともありますが、それらはいるときはいて、いないときはいないので、仕方がありません。


 なのに、それが目に見える形になってやってきてしまったのは、雨風が雨風でいられる自由を奪われてしまったからでした。


 7月の風が、鼻に皺を寄せて怒り狂っている。雲の尾を膨らませて怒り狂っている。


 彼女と彼のいるそこからは、それは蟻ほどの大きさにしか見えませんが、遠くからでも見えるほど、獣は分かりやすく怒っていました。そして、明確な目的を持って駆けて行きました。

 もちろん、牙をむいても雨風は全てに等しいので、わたしたちにもその蹄を打ちつけます。雨粒を打ちつけます。


 雪、雨。雪、雨。地上には、雨と雪。

 夏と冬の混じった不思議な天気に、なんだろう、と空を見上げながら、彼女は傘で引かれた線を辿って行きます。雪に残った、大きな歩幅の足跡を、小さく跳ねながら一つ一つ踏んでついて行きます。ぴょん、ぴょん、ぴょん、と。

 

 うさぎでもないのに飛び跳ねて歩くなんて、なんともおかしなことでしょう。でも彼女は裸足ですし、雪が冷たいのを知っているので、そうしてしまうのです。

 ところが、彼女は冬の鳥ではないので、冬の恐ろしさまでは知りませんでした。雨雪に牙装は濡れ、風が熱を取っていく。

 そのうち、寒さに上手に手足が動かなくなってしまって、疲れてしまって、立ち止まってしまって、彼女はついには動けなくなってしまいました。


 さむいさむい。


 彼の背中が遠くなっていってしまう。「まって」と彼女は言おうとしましたが、そのとき口の中に雨雪がひとつ、入り込みました。

 ぱくり、と口を閉じる。冷やっこくて、味がしなくて、なんだか変な感じ。

 初めて食べた雨雪に、彼女は驚きます。けれど吐き出したり、舌を出したりすることはせず、静かにごくん、と飲み込んでしまいました。そしてぶるぶると震え始めるのです。

 仕方がありません。雨雪は、天上のアイスクリームは、天国の食べ物になるように祈られていますから。_ああ。これが、去ったもの達への慰めになる事を願います。_

 

「ね。ジズ。私、あなた、が。悪い人、に。思えないの。」


 冬や永訣というのは、どうして突然やって来るのでしょう。

 冬なんて、ずっと来なければいいのに。

 ついにはうずくまってしまって、彼女は、牙装の隙間からジズの姿を覗き睨みながら、羽毛を膨らましてしまうのでした。



 ジズは立ち止まって空を見上げ、目を細めた。

 一点に視線を凝らすと、ふっと白い息を吐き手を掲げてそれを掴んでみせた。

 辺りの空気や雪を集めて一瞬鋭く尖ったものを形成したが、腕を下ろして中断した。


 足音が止まった方へは、振り返らない。


「動くなよ」


 ジズがユピトリへ向けて告げた瞬間、ユピトリの周囲を暴風壁が取り囲んだ。

 暴風の壁はユピトリへ迫ることなく、その場で留まり続けている。

 ユピトリと少し離れた場所にいるジズは、傘を地面に置いて、両手を目と同じくらいの高さまで上げた。


「探す手間が省けて助かった」


 ジズの言葉の直後、物陰からひとつの影が飛び出した。

 ジズは何者かの斬撃を軽々と避けているが、一向に攻撃に移そうとしない。


「若いなー」


 攻撃をかわして、流して、きっと、体力を消耗させようとしている。


「伸び代あるんじゃない?キミ」


 何者かの刃物を蹴り上げて、刃物が地面に突き刺さる。

 刃物を取り上げられたその"何者がの動きが止まり、よく姿が見える。

 赤い茶髪にツノが生えた、おそらく青年だ。


 ジズは少し乱れた髪を整えて、両手をポケットに突っ込み、彼に声をかけた。


「ジズ・クラウィス。

 ノースから頼まれてるんだ。信用してくれ、ニア」


 するとユピトリを指差して、暴風壁を解いた。


「冷えてるから、暖めてやってほしい」


 青年は名前を知られていることにぴくっと反応を見せ、地面に刺さったままの刃物を

 静かに回収した。振り返らず先をゆく男の背中と、寒そうに縮こまる彼女を交互に見

 た。


 バツが悪そうに唇を噛んでから、ユピトリの方へ駆け寄って目線を同じく屈んだ。


「っ何なんだ、最近


 青年がぼそっと独り言をこぼしながら、自分の分厚い上着をユピトリへ被せた。

 噛んだ唇に滲む血を掬うと、近くの枝を折ってそれに塗った。

 すると、枝先がぱちぱちと火の粉を立てて燃え始める。青年はユピトリにその枝を差

 し出した。


「燃え移らないから、持ってろ」


歩けるな」


 肌着姿の青年は、ユピトリを放っていく事なく、枝を渡してから歩き出すのを待っている。彼は少し寒そうに、ときどきぶるりと全身を震わせては、ジズの進んだ方を気にして、また交互にジズの足跡と、寒さに弱いユピトリを見た。



「わ、あ。」


 彼女は、枝を放り投げてしまいました。


 というのは大袈裟。本当は、ただ手を離して、それを落としてしまっただけなのですが、放り投げたように見えてしまったのは、彼女が尻もちをついて、後退りをしたからでしょう。


 青と銀色の目は、ただ一点を見つめています。ゆらゆらと、ベールのようにゆらめく炎を見つめています。

 見つめているというよりは、体が固まって、動けなくなってしまっているのかもしれません。寒さのせいだけではありません。その証拠に、火の粉の飛ぶ音がするたびに


「こわい、こわい。」


 と彼女は目を閉じるのです。

 それもそのはず。鳥にとって火は、人間にとっての幽霊みたいなものだと思いますので、突然目の前に現れた炎に、こうして驚いてしまったのです。


 風に煽られた炎が、彼女の方へなびく。乾いた熱気のねこだましにハッとして、彼女は、先を行ってしまうジズの背中と、彼と自分を交互に見る少年の姿を順番に見ました。


「…。」


 ニアの目に、鳩豆のような彼女が映るでしょう。彼女もまた、ニアの顔を見て、目を合わせます。


 ジズが、ニアが、怪我がなくて、本当によかった。


 正気を取り戻した彼女は、深く息を吸い、動揺して高鳴った胸を落ち着かせました。


「アンシャンテ、あなたが、ニアね。

 その。手が、冷たくて。上手に、持てなかったの。落として、ごめんね。」


 いつもの、お決まりのご挨拶。

 それでもやっぱり気まずいので、照れたように笑いながら、自分に被せられた上着を指さしました。


「これ、ありがとう。でも、ニアが、寒い。ので、火は、あなたが、持つといい。」


 と、言いますが、決して自分から枝を拾おうとする様子はありません。


 ユピトリは、よろよろと立ち上がってみます。


 けれど、やっぱり寒い。

 寒いなぁ。


 困ってしまって、ため息をつくのでした。


 …………という、長い冒頭の後に、Xiがやってきたかもしれません。


『人の好意を投げ捨てるような、酷い人になったんですネ、あなた。』


 なんて言いながら、向こうから歩いてやってきたかもしれません。

 でも来ません。なぜなら、彼女は今、月の影に隠れて泣いているからです。


 せっかく、ユピトリが落とした炎に、自分を重ねて、今を見る隙間が用意されているというのに、白い装いですっかり顔を隠し、めそめそと泣いています。

 どんな事にも答えてくれる彼女ですが、きっと泣いている理由は教えてくれはしないでしょう。どうして?どうして?


 Xiは、ただ泣いていました。彼女は今、どこにもいません。

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