2章 9


 非常に申し訳ないことを今から言おう。あなたのその様子にひどく、愛おしさを覚えてしまうのだ。

 嫉妬や怒り。内訳がいかなるものであろうと、少なくとも子供では到達し得ない気持ちである。その健やかさが、愛おしい。


 それで、ユピトリは王の方を見やって困った顔をした。

 あなたの顔、ひどく汚れているね。せっかく端整な目や鼻立ちをしているのに。どのようにしたら、あなた綺麗なままでいてくれるだろうか。


 いくつか考えたのだけれども、やはり最善の答えは見つからない。それに駄々ばかりをこねては、生きていけないことを彼女はよく知っている。だから一つ、心を決めた。


「ツァラ。」


 もしかして。もしかして、最後かも。あなたの名前呼ぶの、最後かも。


 あなたの名前の一文字目は、上顎の前歯より3歩下がった場所を舌先で優しくつつく。二文字目は、一文字目との刹那の別れの後に再会を果たし、流れる水のようにそっと押し出して繋げるのだ。


 けれどもしかしてもう、そんな事出来ないのかもしれない。もう名前を呼ぶ事なんて無いかもしれない。


「私、あなたのその顔、好きじゃ無いの。


 …あのね。もう、私。行くから。もう、怒らないで。」


 そっと自分を隠すブランケット、クッション、それからロゼの手を取り払って、まだ涙目に赤いまぶたをこすった。

 たくさんの水たまりが、できてしまったね。反射した世界が、綺麗だね。


「…」


 別れの意味を含む言葉、大嫌いな言葉は結局言いあぐねてしまったのだけれど。


 ユピトリはひとつ、お辞儀をした。



 ぶつかる音。正確には、ぶつかってきた音。

 開かれた扉から風が吹き込む。あなたを中へ押し込める風。風は自然は、敵か味方か。


「はあ 行きたくない 行きたくない!」

「こんな所まできたのよ 引き返せないわ」

「ねえ どうしましょう」「どうしましょう」


 出て行ったはずの扉から再び無機質がお邪魔して、へにゃへにゃでくたくたの鳥さんに、わざとぶつかった。


「あらあらあなた なにもなしでお帰りですか」

「もうちょっと荒らして帰りなさいな」


 狭い入り口を通せんぼするように、壁に片腕をついて、またあの笑顔で世界を踊らす。ネクロネヴラ。


「面白そうだったので、戻ってきました」


 なにも言わずに床を濡らす魚と、また同じく何も言えず難しい顔をする研究者に軽く手を振る。



 彼によって今のような不穏に陥って心折れてしまったというのに。多分彼女に逃げ場は無いんだろうな。

 ユピトリは、締まりのない顔でネクロを見つめた。


「あ…」


 何が面白かったのだろう。何が言いたいのだろう。何が、どうしたいのだろう。

 彼女の心境は、小さな砂山に刺した木の棒のようにとても心許無く心細いものだった。


 なので彼の含みのある笑顔には何かがあるように思えてしまって、やはり、やはり恐ろしかった。


 けれど今や別れを期してしまった矢先、何かに怯える必要なんてないんだよ。失う事に大きく憂う必要なんてないんだよ。


 なんて、おおよそそんな風な事を思ってユピトリは無機質なものに近づいてみた。


「…あなたの、面白い。私に、分からない。ので、教えてほしい。」



 あなたが砂山に刺されてぽつんと佇む木枝ならば、上機嫌なふりでスキップをしながら蹴飛ばしてやるのが、僕の妥当な立ち位置なのでしょう。


 ところで。


「僕を攻略するのは 難関ですよ」


 あなたが思うより事態は深刻ではない。

 無機質は壁に手をついたまま、奥の家主に向かっていつもの調子で告げる。


「そうですね ロゼ」


 投げかけられた言葉を咀嚼した研究者は、ふう、と息を吐いて、魚を落ち着かせ、鳥と無機質の元へ。

 ユピトリを間に、二人の男が業務連絡をとる。ちょっと薬品の匂いのする、骨張った寂しい手が、後ろからユピトリの髪を撫でる。


「…………私よりは、そいつの方が 頼りになる。

 今は、あいつを__ツァラを放っておけない、」


 髪を撫でる、手が止まる。


「ここはもう、過去だ 振り返るな」



 彼女の性格上、暖かくも冷たくもない手の平に、少し期待を抱いてしまいながら、ユピトリはしなびてしまった羽角を少し持ち上げた。単純な小鳥の嬉しい気持ちである。


 全く、嘘がつけなければ隠すこともできないあたりやはり、彼女に彼の忠告は難しいようである。果たしていずれ、学ぶ日が来るのだろうか。


 して、彼らが何を話していたのかは、ここにおいて少し足りない頭ではまるで分からなかったけれど。


「…わかった、振り返らない。

 ロゼ、私、行ってくる。」


 彼に行ってらっしゃいと、背中を押されたような気がして、しまいこんでいた翼を広げる準備をした。


 それから首を振って己にきつけして、先ほどまでとは一変、シャンとした顔で少し笑ってみせた。



 ああ、行ってこい。

 私なんか気にせずに、羽ばたいていけ。

 なんて言葉は閉まったまま、見送る。見送ってやる。

 悪かったな。地獄はお前に見せてやらない。精々足掻けよ、ユピトリ。


 ___


 小さな毒の水槽から出て、無機質がわざとらしく空気を吐く。拠点には入ってこなかった、もう一人の青年もそこにいた。青年は、当たり前のようにネクロの手を取って。が、何か思い出したように呟いた。


「あっ」


「なんです」


「……うちには菓子がない」


 それに目を丸くしたネクロは、くすりと笑って鳥の少女に確認する。


「お菓子が、フフ はは お菓子ね。

 ユピトリ。お菓子は…必要ですか」


 手を掴んだまま、ネクロはユピトリのもとへ蹲る。

 子供をあやすようなこの目は、どこかで見たことがあるでしょう?



 突然の質問にユピトリは止まる。


 どこか慈愛めいた眼差しを、彼女はよく覚えているとも。なのでまた一人で喜んでしまって、羽角を幾度か羽ばたかせるのだ。


「お菓子。お砂糖が、ちょっとあれば、いいな。」


 例えばチョコレートのように風味の奥を堪能したり、ビスケットのように歯ざわりや口当たりを楽しむのでは無く、味蕾に幸せを染み込ませる。彼女はそれで満足する。


 白砂糖を好むのは、彼女の単純さが由来しているのだけれども。賢そうに見えるあなたに、果たして彼女をつくるものを理解できるだろうか。


 さて、次にユピトリは子供のような事を心配する彼に目を向けた。自分より随分大きいのに、なんだか自分に似た幼さを感じてしまうのは何故だろう。彼を知りたく思い、ユピトリは手の平を向けるのだ。


「あの。えっと。…アンシャンテ!」



 あまりにも似つかわしくない挨拶。

 余程お気に入りなようですね。

 ネクロはいつもの無表情に戻り、少し間を置いて、ユピトリの手に自身の手を重ねた。


「自己紹介は___少し前に 済ませましたよ」

「クニハル お砂糖 だそうです」


 “砂糖“の単語を受けた青年は、握っていた手を離して。一度出た、あの拠点へと再び向かう。そして、半笑いの家主が、彼を迎え入れた。


 青年が。二人の間を保っていた青年が、その場から暫く居なくなる。どういうことか理解はできるだろう。いま、この場には、無機質と小鳥の、二人のみ。


 無機質は何も言わず、手を、手を重ねたまま。

 まるで止まっているかのように、瞬きだけを繰り返す。風に揺れる銀色の髪が、黄緑色の眼を隠す。


<< 9 >>