2章 7


 ゆらゆら。ふらふら

 ざわざわ

 ああ、ええと ね  ふふ


「___僕は」


 無機質は立ち上がり、そちらへ振り返る。

 これは忠告。注意喚起、黄色に黒、キープアウト。笑み、細くなる目。飴玉のような、黄緑色の目。月も、人魚も毒薬も、誰も無機質を照らさない。ただ時を待つ。その時を、笑み、笑み、睨み。僕は、僕はね。


「セルヴァンが死んだら、ロゼを貰います。」


 これがどういう意味か、分かりますね。いいえそのうち、分かります。嫌でも、頭のいいお利口なあなたは理解するでしょう。



 果たして彼は何を言っているのだろう。うまく飲み込めない言葉たちに、ユピトリは「えっと。うーんと。」と戸惑うのだ。


 それから、嫌なことを考えてしまうのだ。それはひどく冷たくて、悲しいこと。


「まるで、ツァラが、死んで欲しいみたい。」


 真っ白な少女にこのような事を言わせてしまう彼は、もしや害を成す存在なのだろうか。苦を知って楽を知るとも言いますが、彼の敷く苦が毒であるのならば、それは照らし尽くして燃やさねばならない。


 先ほどまでぬいぐるみのようであったユピトリは、本能が察した警告に気を張った。


「ダメ。ロゼは、渡さない。」



 はて。

 めらめら、していますね。

 僕は戦争に参加する気はないのですが。ね。


「ええ。そうです、そうです。

 ですが、何を勘違いなさっているのかは分かりませんが、彼は元々、あなたのものでは、」


「 ああそうだ アレは俺のものだ お前にも、そしてユピトリ 君にもあげない 」


 水音、涙、海、水の匂い。ほんのり香る、香水の匂い。透き通る声。

 現れたのは、数時間前まで血を流して床に倒れて、急にどこかへ出ていった男。の、後ろに、髪の長い青年が遅れて入ってきた。


 ユピトリ同様未だ回復し切ってはいないが、それよりも、今は。ただならぬ殺気を感じるだろう。


 隠す気のない殺気を纏いながらも、魚は鳥に向かって笑む。


「お留守番ありがとう ユピトリ」



 滴る匂いに希望に似たものを抱いたが、ユピトリはなんだかむつかしい顔をして黙り込んだ。ツァラやネクロに何か言いたい事があったけれど、やめておいた方がいいと思ったからだ。


 賢明である。不穏を纏う見知らぬ彼ら、海に恋した眠れる彼と、王だった者の稀なる狂気、それと彼女。もう役者は出揃っただろうか?


 さあいよいよ、状況が混線としてきたじゃあないか。そんな名も台本も無い舞台上では、時に陰る事だって必要なんだよ。


 今彼女に台詞は、不似合いなんだよ。


 暗闇の中を覗けてしまう夜鷹の目は、虎視眈々と現を見つめている。



 今すぐに、今すぐにでも乱戦が起こってしまいそうな、刺々しい空気。だが、誰一人、沸騰などしていないのだ。


 ひどく表情は落ち着いていて、手を出しそうな雰囲気さえない。彼らは、そこで眠る蛇目の孤高以外は、基本的に攻撃を仕掛けようとはしてこない。なんてナレーションをしているうちに、客人が暇を書きそうなので、


「今度は、ちゃんとした土産を持たせます」

「クニハル、帰りますよ」

「ああ ロゼ、もう起きてますから ひっ叩いてやりなさい」


 今度はわざとらし笑顔ではなく、顔見知りのような態度で、猫のような目をして、手をひらひらとさせながら出ていった。


 聞き慣れない名前の持ち主であろう彼は、何とも言えない顔をして、先ほどまで一緒だった人魚に別れを告げ。ソファで家具と同化している鳥の彼女を見て、軽く会釈して。腕を引っ張られて、同じく、拠点を後にした。



 彼らが出て行ったのを確認して、またしてもユピトリは黙り込んだ。

 彼は何用でここにきたのだろうか。無用にしてはあまりにも意味を孕みすぎている。彼が占める空気が大きすぎる。


 何か、何か、まずい事が起きてしまうんじゃないか。

 それは、それは、嫌。


 咄嗟にユピトリは立ち上がって、裸足でツァラの元へと駆け寄った。床が異様に冷たく感じる。


 それから怪訝そうな顔...不安そうとも言える顔をして彼を見上げた。


「大丈夫?ねぇ、大丈夫?」


 願わくば今すぐ、彼女に大丈夫であると声をかけて、それから冷やかな手で頭を撫でてやってほしい。それだけで、彼女はいつも通りの彼女に戻れるはずだろう。


 もしくはいっその事、ユピトリがさっさと獣にでもなってしまえばいいのかもしれない。しかし彼女はそれができないでいた。


 今も人と獣の間の姿で立ち止まってしまったのはおそらく、“考えられるうちに考えておけ”というロゼの言葉に躓いてしまっているからだろう。


 ともあれまず、しがみ付きたいのを耐えながらだんだん震えていく彼女の声を、よく聞いて。


「あのね。考えちゃった。あなたが、死んでしまうこと。ロゼが、一人になること。ロゼが、死んじゃうこと。


 やだ、考えたくない。考えたくない。考えたくない。ああ、ああ。でも。どうしよう。」


 星火燎原の永訣とまみえた。


「みんないなくなっちゃった」



 心地の良い眠りだった。


 疲れが溜まりきっていることをすぐに見抜かれて、眠らされた。愛しい奴も帰ってきたし、まあ、悪くない。


 そしてどうやら客人は、足音ふたつ、巣へと帰ったらしい。どうせ起こしに来てくれる、それまで寝起きの微睡を味わうとしよう。


 ____起こしに来る気配がない。し、最近ピィピィとやかましい鳥の声がする。何をそんなに焦っているのか。


「…………」


 目をゆっくりと開けて、声の主を見る。今にも崩れ落ちそうな、不安な声。顔。のすぐ前。ツァラ。ああ、綺麗になって。いっそう綺麗になって。


 私は寝起きの重い目蓋を瞬きさせて、静かな観客と化す。ああ、どうぞ、続けて。続けて。


 ___大丈夫?


 駆け寄る少女に、優しく屈むこともなく、返事をすることもなく。男はただ少女を見た。


 んああ、全然大丈夫じゃないな。

 身体 すっごく痛い 今にも胸から裂けちゃいそう。

 ああでも 違うな

 その大丈夫は 俺へのものじゃ ないだろ

 ずっと ロゼ ロゼって


 ツァラはユピトリの前に蹲り込み、頬に手を添えて、やさしく撫でて。綺麗な笑顔で微笑んだ。


「ううん全然大丈夫じゃない

 お前たち皆 エルのことを欲しがるから 俺が隠して見えなくしちゃう ねえユピトリ 冷たい毒の味って知ってる?」


 微笑んでいた目が開き、じっと、ユピトリの目を、覗き込むように見る。毒の色をした、酷く澄んだ瞳が少女を射抜く。そうして頬に添えていた手は首へと、肩へとなぞるように下げられ、か弱い、細い肩を掴む。


「エルのこと欲しがるなら 食べちゃうから」



 どうやらすれ違ってしまった心に、ついに決壊してユピトリは泣いてしまったじゃないか。

 男女問わず、大人も子供も問わず平等に、己の内を明かす姿は格好が良い。しかし人目をはばからずみっともなく泣く彼女を見て、もしや彼は何も思わないな。


「なんで」


 悲しみに声を潤して、ヨタカの口が大きく開く。


「みんな、望んで去ろうとする。

 なんで私のお願いは、誰も聞いてくれやしない。

 だって、私を食べて、いなくなったじゃん。あなたいなくなったじゃん。」


 彼の冷たさが不快極まりなく感じてしまって、大きな手を払いのけてうずくまってしまった。四肢を投げ出して駄々をこねるだけの元気が、もう無かった。


<< 7 >>