4章 32


 Xiは笑った。

 淀んだ泥に咲く花は、いっとう美しく見えるでしょう。彼女が欲しかったのはそういう光。


 たった一言の形を認めた言葉に気持ちが満たされて、どうしようも無い気味が吐精されたのだ。


 恥じらう様子もなく、Xiはネモという男の顔を見て、足元を見て、もう一度顔を見る。


 その、ユピトリに似た髪色は気に入らずとも、悪趣味な収集癖と気取った御託の無い様が気に入ったようで、こころをゆるして己の名を名乗ろうとするのだが。


 “Xi”という、たった二つの記号の意味も音さえも、はるか昔、塔を打ち砕き、言葉を四散させた神の偉業によって、やはり我々には理解できないものだった。彼女はそれに気づいていないようにも見える。



 まぁそれでも一応、その素振りを見るに、たとえ片手に刀があっても、友好こそ無けれど敵意のない事くらいは分かるだろうか。


 ビードロのような瞳を揺らしながら、鶏冠を揺らしながらネモの周囲を歩いている、彼女の唇からは意外にも野蛮なものが紡がれている。ネモが、彼らがそれを分かるには翼を得る他無いが、あなた達はそんな事をしようとは、きっと思わないだろう。


 そうならば腹にしまった翻訳家を出してはくれないだろうか。勘違いも大義も払ってしまいたいなら、彼女が必要な頃合いであるはずだ。


 Xiはそれを望んでいないようにも見えるが。



 当然、ネモが腹中の小鳥と異邦人の関係など、知っているはずもなく。ユピトリをどこの誰と勘違いしたのかも知り得ないが、それは確かに、問いただすことは容易であろう。目元は前髪でうっすらとしか見えず、衣服は目立ちはしないが黒地に結構な返り血。脚元に散らばったがらくた。見るからに、空き缶を投げつけられても興味を持たなそうな風貌である。


 ノースの気配が消えたのだから、気配から隠した荷物をもう開けてもいい頃合いだろう。そういえばそうであった。そうであったのだが。頭のいい貴方なら、きっと勘づいてはいるのでしょう。

 どうしてがらくたや刃物や骨が出てくるのかと。いやそんなこと。聞かなくてもわかるでしょうと。ネモは異邦人をちらりと見てから視線を戻し、上着のジッパーを下に下ろす、そのまま腹の前に腕を構えた。数秒後、ねばねばした粘液が纏わりついたユピトリが、腹から吐き出された。

 ネモはユピトリを腹の前で抱き抱えて、髪や顔に纏わりついたねばねばやべとべとを拭い取って、口に含んだ。


 捉える者によって捉え方は違います。腹の中が夢心地のようにぐっすり眠れる者もいれば、いやな記憶ばかり蘇って早く出せと溶か、失礼。いやな夢にうなされる者もいます。勘違いで腹に"隠された"彼女は一体そこでなにを思い出して、何を見たのでしょう。

 腹の持ち主の記憶なんて見てしまったら、きっと混乱して、羽を散らせて泣いてしまうかもしれません。そう考えると、乱暴で凶暴で一途な愛妻家のほうが、まだ残酷さに欠けていたかもしれません。かといって私が、貴方が指名手配の彼と何の関わりがあるなんて、知っていることをカミングアウトして差し上げる義理もないのですけれど。


 __腹の中に留めておけば、溶けて骨になったでしょうに。美味しそうでもありませんし。


「ご機嫌いかがです、"Jupiter"様」


 ユピテル。確かにそう言った。

 それからネモはまた、異邦人をちらりと見てから、ユピトリに視線を戻した。



 まるで。まるで、そんなこと。

 ただの鳥のくせに、ただの愚か者のくせに、どこにでもいるくせに。救いも導きも無いくせに、この後に及んで人の“はら“から落ち出でるだなんて。

 まるで。


『まるで、人間じゃないか。

 いつだってお前は、いつもいつも…


 そんな、そんなの、ずるいじゃないか。』


 塵が積もってようやく四等星程度になれたXiは、己の太陽の目覚めと同時に姿を眩まさなければいけないことは重々承知している。

 だから間際に、そのあまりにも惨めな台本に腹を立て、怒声と共に自身の影を散らした。

 勘違いにも真相にもガラクタの山にも、何もかもに意味を見いだすことをやめた瞬間である。


 彼女、ユピトリが愚か者であるならXiは馬鹿者だった。

 もうそろそろ見えてきたはずでしょう、Xiというものが。Xiのしたいことが。

 幻日に瞬く星は、そういうものなのです。彼女は、一等星になりたかった。


 そんなことなど露知らず、ユピトリはネモの腕で穏やかな息をさせ、自分の名に近いだけの音に気付いたようだ。

 一つ。あなたの夢に彼女がいないのであれば、彼女が泣き喚くことが無いのは確かであるが。


 どうやら何かの手違いで、法も秩序も無い記憶の裁判で語られた証言が…夢の内容が、間違った判決へ導いてしまったらしい。

 寝ぼけながらもだんだんと開かれ、見えるようになってきた目は、銀色の瞳と青色の瞳。


 春色の髪が揺れる。ユピトリはネモの首元に抱きつき、今欲しいものを求めて彼の鼻先を優しく食んだ。


「おはよう、…

 ロゼ。」



 ネモは言葉を発さなかった。ユピトリが目覚めたことによって異邦人が消えたこと、彼女、ユピトリもまた、自分を勘違いしていること。数千年生きてきてこんな些細事に指を使うのは、まるで馬鹿らしい。しかし、数千年生きているからこそ、なんでも持て余しているとも言える。庭で茶会をしている途中に、隣に立っている使用人を食い殺すくらいには、なんでも持て余して、なんでも飢えている。


 ネモはユピトリの目を手のひらで覆い隠し、口を、腹を。ようやく開いた。


「貴方一体どこの誰なんです」


 そう言って覆っていた手を退けると、そこにあったのは先程ユピトリが呼んだあの、エルドレッド・ロゼの顔であった。ロゼの顔をしたネモは、ユピトリを軽々と抱え直して胸元に耳を当て、心臓を確かめる。肩を首を嗅いで、頭の後ろを掴んで、眼を覗き込んだ。

 そっと、ユピトリを客席に座らせる。その表情は変わらなかった。

 がっ、と。頭を押さえてやはり眼を覗いて、あろうことか舐めた。離れて口内で味を確かめるように舌を動かしていると、すこし表情が歪んだ。


「う⋯⋯⋯、ぉえ、」


 ネモは急いでユピトリから離れると、壁を向いてしゃがみ込んでフードを被り、口を押さえながら唸り始めた。何でもかんでも腹に放り込んでいた者が、舌先でぺろっと突いただけで、その刺激だけでこんなにも悶えている。床に垂れた上着の裾が黒い炎のように微かに揺れ始め、当の本人の顔は、きっともう成りすまされた顔ではなくなっているだろう。


 辺りをとりまく空気や音に異常が現れ始めたころ、ネモははっとして、一瞬固まったと思えば、気づけばそこには何もいなかった。蒸発、文字通り、黒い水気を残してその場から溶けて消えてしまった。


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