2章 16


 求めないのであれば、与えてやらない。

 探さないのなら、見つかってやらない。

 去るのなら、追いかけてやらない。

 来ないのであれば、行ってやらない。


 けれど。

 いいな。いいな。あなた、いじわるな人ね、ネクロ。


 それで、はじめましてのあなた。恥ずかしがり屋さんなのかな。呼んでも来ないあなた。

 私は腕を下ろして、来ないあなたの代わりに駆け寄って、手を取って、それから柔らかいところに歯を立てた。さっきまでいた誰かなんて気にしていないようなフリをしながら。

 真似してもいいでょう?ワザとそうする事。上手にワザとできたかな。


 でもね、知ってるよ。横目に見たのあなたの顔。ぴかぴかひかる星の上、なんだかつまらなそうに見えた。


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 小さな歯の跡がついて赤くなった彼の手を舐めて、撫でて、ユピトリは眉をひそめて困ったような顔をした。


「あのね、私、あなたの事。美味しそうって、そう思ったの。」


 もし腕を広げた彼女の元へ近づいてしまったのなら。今度は首元に舌を押し当てて味見をしたかもしれないし、食い意地の張った彼女の事だから食べてしまっていたかもしれない。その中身が蓮の花の咲いた瀝青を煮詰めて、固めて、溶かしたようなものだったとしてもね。いや、むしろそうであるならば尚更である。

 彼女も、もしくは彼も。そんなものに絆されて、伝えたい白が浮き立つものじゃあ、ないかな。


「でも、今は食べない。がまん。…私、えらい?」


 今一度、彼の顔を覗き込む。ため息に消えてしまう煙のような姿に親しみを覚えたらしく、他人に散々弄ばれた手に匂いを付けるように頬擦りをする。



 紐解く起源、落散る水滴

 死薬を乗せた横槍。

 脳内干渉、あまい菓子。

 御手手つないで向かうは楽園。

 あなたにとっては地獄。


 作ったのは僕。ねえ 試していますか?

 手の内をわざと見せているんでしょう?


 あなたがわざと 仕込んだのは?


 齧られて、舐められて、出ていって。

 次は別の人。這う何か。触れる何か。


「……………」


 意図して黙っている、が正しい。

 数週間前に辿り着いたここは、どこもかしこも薄暗くて、たまに変な音と声がする。そこら中についている目のようなものは、どうやら監視カメラというらしい。見張りをつけなくていいのは便利になったなと思うだけだった。


 光が差し込んで、懐かしくて、ここに黙って座っているのが当たり前になった。


 噛まれて、歯形がついて、困った顔をした彼女。

 美味しそう、とたしかにそう言った。


 美味しそうなら、食べればいい。

 歯形をつけるよりももう少し力を込めれば噛めるし、なぜそうしない?禁じられている訳でもなければ、呪いをかけられているわけでもないだろうに。


 なにに惹かれて、わざと歯形で留める必要がある?


「…………美味しそうなら、食べてください」


 あなたがなにで、だれで、どんなひとで、なにも知りませんけど、どんな顔をして別を殺めるのか

 なにも知りませんけれど、どうぞ


「禁欲はおれの前では必要ありません」


 回復は、とてもおそいけれど


「なにも気にしないで ひかりの貴女」


 そういって、近くのパンフレットで自分の人差し指を切った。

 頬擦りして手に匂いをつけてくる彼女の目前に人差し指をもってきて、小さく呟く。


「貴方にこの血 どううつりますか」


 天使の血 悪魔の血?

 人間の血 レヴナントの血 ロストの血?

 混ざった血 濁った血?

 おいしい血 香ばしい血?

 赤黒い血 のろいの血?

 小瓶の半分 のろいの血?


 抜け殻はいっさい、笑わなかった。



 吸気に混じる匂いは、随分前のことに感じる最近の事、空と海を繋げた血の雨と似ていた。

 ああそれを舐めたい。なんて気持ちを堪えて手を握ったり開いたりした後、彼女は自分の指の腹に尖った爪を立てる。


「私は、ひかりじゃ、無いよ。」


 彼の裂け目から漏れる魂は、どのような意味を含んで赤い色を成しているのか分からない。けれどいかなる概念があったとしても構わなかった。特に人では無い彼女にとってはね。

 だから血の滲み出る孔を彼の指に合わせ、傷を、魂を、存在を一つにした。


「なんでも、無い。ユピトリは、ユピトリだよ。」


 敬意と共に贈られた半分の命のもう半分、そこが例え彼に占められようともきっとそう。ユピトリはユピトリのまま、変わらない。



 みらいがみえないってのは、どう


 自分が何者かわからないのは、どう


 逆流。虫酸。虫唾。むしず、むしず?

 開かれた穴から、計り知れない成分が流れ込んでくる。かのじょと溶け合った部分があつい。きもちわるい。あつい。あっつい。燃えそう、溶けそう。

 と  と、け、とけてる?


「__~ァ、あっう、はッォ゛エっ!!!!」


 きもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい

 きもちわるいきもちわるいきもちわるいきもちわるい

 きもちわるいきもちわるい!


 なんにもはいってない所から、胃液だけが飛び出した。…生まれ出たかえるみたいに。ああ、こいつがきらいで。名前も出したくありません。口にも出さないで、いわないで。


 みないで。暴かないで。いじめないで。


 とけあった部分が、部分から。糸のような、ばけもののようなものがにゅるにゅると這い出てきたのが見えて、思わずユピトリを蹴飛ばして元いた場所へ、ない体力を振り絞って途切れ途切れに逃げる。


 肩で息をして、全身を抱き込んで、ないに等しかった脂汗がふきでる。ごまかすみたいに、聞こえないみたいに、誤魔化して、誤魔化して、わめく。


「あ ァあああなた、あー アー あッ はあ~~~~~~~~な、なん な、 な、なに

 だれ  かみさま? あ、あ、っ」


 がくがく震える全身と顎をとめて、壁に向かって、頭をかかえて、滴るだれかの血をみて、よだれか血かわからないものをだして、目からしょっぱい水をこぼして、きえそうな声量ではなす。


「 ひかりの皮をかぶった  なに…?」


 ダクト音。

 ねずみ、いたち、いきもの?

 意図的に送り出される風。空気。



 “変化とは、始まり”。けれどきっと、彼にとっては、“終わり”。

 ただの一枚の羽の重みに崩れてしまうほど、細い足をしている彼はとても繊細で。ああ、でも、羽よりも先に背負った自身の運命に既に押し潰されていたね。


 弱いあなた。たどり着けないあなた。なりきれないあなた。素直なあなた。隠したあなた。隠れたあなた。

 木を隠すなら森の中。

 煙を隠すなら風の中。


 ユピトリは格好悪くよろめくが、追いかける事や声をかけることはしなかった。指先で弄った彼の傷に、大体のことを見たからだった。

 きっと彼は、世の被食者。生まれ落ちたその時に、その概念が名に刻まれていて。

 それならば道理で彼を食べてしまいたいと思うわけで。なるほど、なるほど、とユピトリは少しだけ彼と混ざった自分の血を舐めた。


 混ざり物と混ざり物が混ざった魂の味は、例えばコース料理の最後のデザートのようにも感じるだろうし、3分並べば手に入れられる焼き菓子のようにも感じられただろう。


 けれど彼女はそのどちらも知らない。なので思うことは

「tasty」

 ただそれだけだった。


 また、彼の血によるものなのか。4、5度舐めると塞がってしまった孔に、ユピトリは寂しさを覚えてしまって。再び指先を切って、小さな舌を這わせて渇きを潤した。


 その慈愛と自傷の混ざった姿を見て、彼は何を思う?これが、ひかりに見えるのか?かみさまに見えるのか?そう見えたのか?

 そうならば、世界が如何に腐敗しきっているかがよく分かる。

 彼がそうやって彼女を見たのならば、彼女もまた彼をそう見ているものだ。


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