1章 3


 呻き声を聞きながら、抉るように噛みちぎり、血を啜る。決して喜ばしい表情ではなく、それは、まったくの無表情。


 男は口元を拭いもせず、少女の耳元で小さく囁く。


「___エルはお前を、…おもちゃにすることに決定した。」


 さきほどまで少女の頭と腰に軽く添えていた手を下ろし、両頬に手を添えて、懺悔のような、願いのような。


「ここを出なさい。そして、二度ときちゃいけない。」



 ユピトリの震える手足は冷え切っていた。肉の見えた首筋を隠すように、半獣の姿になって羽毛を膨らませるが、止まらない血が白い羽毛を濡らす。己の体の生臭さに、死が頭をよぎった。


 一方で彼の高貴な目は据わっていて、およそ目の前の小鳥の命など気にしていないようだ。


 …いや、気にしていなければ、彼女の安否を示唆する言葉など出るはずがあるまい。というのに、この不和は何故か。何故か。


 謎が与えられるばかりである。けれどいつかのよだかの星であって、願い星ではないユピトリは、歯を食いしばって“嫌だ“と首を振った。



 嫌だと首を振る、頑固でイレギュラーな半獣の言動に素直に疑問を感じる。生きたくないのか。はたまた受け入れか。安否のその後、半獣の血の流れがどくどくと時を数えるように、暫くの沈黙が続く。


 嫌だと言っても、血が止まることはない。血の流れを、血の本体が枯れるのを待つように、ゆっくりと瞬きをして、首元をじっと見据える。


 逃げようが逃まいが、構わなかった。彼の、エルドレッドの目に留まっただけ。足掻こうが、足掻くまいが、目の前の魚を捌いて逃走するか、まるで興味がなかった。彼が少女を獲物にすると宣言した時から。ここにあるのは、死が待つ少女への味付けのみ。



 いやだ、いやだ。全部嫌だ。


 立ち込める死の匂いも、彼らとの幸せだった日々が終わるのも、首や胸や心の痛みも、身に纏わりつく空気も何もかもが、いやだいやだ


「嫌だ。」


 湿気のない、ピンと張った紙の真ん中に鉛筆を刺すように、ユピトリは叫んだ。


 …もしや、あなた達は何か勘違いしているのかもしれない。深海よりも底、何層もの殻に閉じこもってばかりなので、彼女が何故頑なに駄々をこねるのか、その意味に気づいていないのでしょう。


 彼女の陽の光を暖かいというのならば、嘘である。これは、影を暴く。水を焦がす。己以外を焼き尽くす。


 けれど正しいこともあった。例えば、彼女が一人で立ち、全てを受け入れる脆くも強いことだろうか。


「ツァラ。あなたが、ロゼを、呼んで。」



 妙な感覚。腹の底が煮えそうな、熱いような、蒸せかえるような。違う、興奮している。蘇ってから闘志など全く持たなかった。珍しく、溜め込んだ毒を吐いてやりたい気分になった。数分前の、目の前の少女を逃してやりたいと気にかける男の目は、そこにはなかった。


 奥で獲物を待つ蛇を、満たしてやりたい。最高の味付けで、含むと死ぬような、隠し味も。極上のディナーを前にした深海の王は、見たこともない目をして、ユピトリの頬を片手で掴んだ。


「___お前、何する気だ。」



 好きだったものと、見つめあってしまうなんて。


 ご覧、ユピトリの目は、これは喰えるものか喰えまいものか迷っているというのに、真っ直ぐである。


「私じゃ、ない。あなたが、するの。

 …ねぇ、ツァラ。ロゼを、呼んで。」



 頑なに合わせないと指摘されれば、そうかもしれない。この張り詰めた空気で、なんとなくわかってはいた。合わせたくない。後悔した。全て自分が仕組んだものだと、言っておくべきだった。


 彼はなんの関係もない、お前が怨むべきは忌まわしき研究者ではなく、化物の、目の前にいる俺なんだと。


 少女に構った時開けっぱなしにしていた窓から、ひどく冷たい風が舞い込む。開かれていた本が、終項へ向かって、勝手に捲られる。


「しょうもない外野に会いたくて堪らんか。

 ユピトリ。」


 冷たい部屋に響く声。それはユピトリの目の前にいる男のものではなく、拠点の奥で、運ばれてくる獲物を待ち続けていた蛇。風呂上がりの湿った髪に、一部鮮血の飛び散った白衣を着た、瓶を見た瞬間目の色を変えた男。右手には、未使用の注射が握られている。


「アンシャンテ、夜鷹のトリ。ご指名かな。」


 冷たい風に揺れる銀髪、ほんのり香る鉄の匂い。色素の薄い肌によく映えるは、かの研究者、エルドレッド・ロゼ。



 一目で死を連想させられる彼は、死神か何かだろうか。手にするもの、纏うものから、その歯牙に託される、確約された結末を悟る。もう戻れないところまで、来てしまったね。


 でもそれは、いやだなぁ。とユピトリは思うのでしょう、けれど彼の言葉の意味を知らないわけではない。教えてくれたのは紛れもなく、彼なのだから。


 さて、ということは。つまりは。ついに頼れる大人がいなくなってしまったわけだ!

 ユピトリは歯を食いしばったが、その表情はいささか笑っているようにも見えた。というのも、沢山の言いたいことがあった。考えたいことがあった。


 例えば、おそらく自分のために詰められた“毒“を受け入れれば、褒めてくれるのだろうか。白衣に飛び散る模様の一部になれば、褒めてくれるだろうか。それとも彼の言った通り、正体を隠し続けていたらよかったのだろうか。


 けれど何よりも最初に、伝えておきたいことがあった。

 ユピトリは頬を掴む手を両手で退かし、血の足りない、目眩のする体を正した。


「…アンシャンテ。私は、ユピトリ。夜鷹でも、トリでもない。ユピトリだよ。」



 男は、ゆっくりと歩み始める。部屋中を、まるで何かを待つようにゆっくりと。わざとらしく、歩き始める。未使用の気味の悪い注射器を持ち、時折中身を眺めながら。


「残念ながら、審判はご不在だ。

 もはや誰にも止めようがない。

 いいや、私も、迷ったんだ。

 

 偶然だ。

 今夜偶々、お前がこれを持ってきたから。

 丁度良かった。」


 男は笑う。呆れたような、諦めのような、嫉妬のような。

 今まで山ほどあった。大切なものを盗られる感覚。ギリギリまで引き伸ばしてそれを潰すのが、堪らなく愉しかった。よくある事なのだ。


「いやはや此れを、誰が咎めようか。」


 男は歩みを止める。語りを止める。ナレーションを止める。雷雨が、時が止まったようだった。暗くて、よく見えなかったが、男の目は、ひどく曇っているように、迷っているように見えた。



 端正な顔が、歪んでいるのだ。無論、彼の迷いは彼女にもなんとなく見えていた。それは風の流れを見るより容易くないが、難しすぎる事でもない。


 男は今、揺らいでいる。ただの少女や鳥を前に、揺らいでいる。その滑稽なこと、されど厳粛なこと。


 さぁそろそろ時間だろう。昇る日に東西を知り、向かう方角を目指すがいい。今日は誰も、止まってはいけないのだ。


「ねぇ、ロゼ。“何か、あった“?」


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