どこまでも深く真っ青に染まりきった双眼、おぞましくもどこか神々しい深海は瞳だけに留まらず、傷だらけの全身に纏わりついている。その傷もイオが呆けるその内に修正されていき、まるで始めから無かったかのよう。
牙装の風切羽も全て元通り、それとは別にあの雄々しき翼も展開している。獣かヒトか、どちらとも判別のつかぬほどに獣性を露わにするユピトリ。そこには彼女の知る、いつもの元気ハツラツな伴侶の姿は無かった。
「クックック……ああ、そうだ。それでこそだ。ようやく晒したな、汚物めが。これで存分に狩り殺して―――――っ!?」
砂塵の中、瓦礫に埋もれながらも笑みを浮かべる狩人。口から垂れる血を舐め、身体を起こそうとしたその時、自身に向かって飛来するナニかに気が付く。確かめる間もなく、強引に身体を捻って前転しながらその場を離れると、まるで砲弾が着弾したかの如き衝撃が彼の背後で響く。
先程まで狩人が位置していた所へ、塵が飛散する勢いで飛来した物体。それはあろうことか、狩人の手にしていた異形の大剣であった。
「おのれ畜生風情が! 意趣返しのつもり―――ガッ!!」
ドス黒い血の双眼が鈍い輝きを放ちながら、自身の得物に貼り付けられる。思考が怒りに支配され、視界が眩んだのだろう。でなければ、眼前まで近づくヨタカの鉤爪に気づかぬ筈がないのだ。
縦横無尽に大地を駆けてきたユピトリの脚力、自慢のそれが存分に活かされた一撃。生じた衝撃は、辺り一帯の粉塵が打ち払われるほど。痛覚を感知し、喘ぐ間もなく第二、第三の蹴突が狩人を襲う。
鉤爪に肉を抉られつつ、堪らず反射的に牙装を展開。オウガの黒く禍々しい爪が荒れ狂う白き半獣を叩き落とす。
一瞬の隙が生じ、再生力の因子を活性化させるも、その間即座に立て直したユピトリの猛攻がまた始まった。風切羽、鈎爪、挙げ句は嘴……一転攻勢という言葉では過ぎるほどの暴力が彼の穢血を舞い散らす。
単なる力、俊敏性、先程の彼女と同一とはとても思えぬ猛撃に為す術もないまま。完全な獣と成り果てた彼女の重厚な一撃が、狩人をまたも瓦礫に埋め込み、そして空高く放り出すのに造作も無かったのは言うまでもない。
翼の生えた獣の如く空を駆る様をまるで知らぬ狩人。全身の傷口から鮮血が噴き出し、成されるがまま宙へと投げ出される。そのまま落ちる間すら与えず、白き翼をはためかせた彼女が肉薄し、狩人をまたも鉤爪で捕らえたまま滑降する。
一帯に響き渡る地鳴り、大地に勢いのまま衝突して生じた砂塵から、再び静寂が訪れる。
瞬く間に展開する獣の猛攻…僅か数秒の内に繰り広げられた事象。実戦に不慣れなイオの無垢な目に、それらは最早追いつくことすら叶わなかった。
しかしながら、一見ユピトリが攻勢なこの状況下、素直に喜べずにいる自分がいることだけは確信していた。今の目の前にいる彼女は、真の意味でイオの知る伴侶の姿ではない。彼女が持つ本来の、優しく尊き人間性が失われてしまった姿……それはまさに、狩人が言うところの獣と合致してしまっている。
「……ユピトリ」
一方、粉塵の中から真っ先に顔を出した血塗れの狩人。しかしてその血は、彼が恐れられる由縁であった穢れた返り血ではない。自ら望んで染めた赤でもない。なんと、屈辱的であろうか。
―――クソが……いや待て、落ち着け。何と言うことはない、獣が本性を晒したまでのこと。動きが良くなったのと同時に女王の匂いが濃くなったのが気がかりだが…堕鬼化したか? いや、そもそも元が汚物か、ともかく何としても狩らねば……そういえば彼奴は無事逃げ切ったか? どのみち、ここでこの獣を逃がせば……なに、他愛ないさ。動きが少しばかり速くなっただけのこと。
再生の誘起薬が入った注射器を首に刺し、狩人はひとり思考に入る。ここから奴をどう狩り殺すか、それだけに意識を集中させる。故に、彼はその場で静止していた。
瞬間、粉塵の中で淡く煌めく青。ヨタカの轟きと共に、獰猛な獣性の塊が狩人へ突っ込み、その穢れた命を絶ちきろうと風切羽を突き出す。誘い込まれたとも知らずに。
「―――ッ!?」
突き出された風切羽が狩人の左腕を捉える。正確には、狩人が合わせるように出した左腕に、だが。何故オウガの牙装が使える右腕を使わなかったのか…獣に呑まれた伴侶の代わりに抱いたイオの疑問は、噴出された穢血によって暴かれる。
噴き出した血がユピトリの目を潰し、反射的に崩れたその時、強靱な狩人の爪がユピトリの胸部に深く突き刺さる。ゴポリ…と嘴から血泡が吹きこぼれるも、彼女は獣性の赴くままに暴力を振るう。
しかし、再度自らの穢血に塗れた狩人はこれらを真っ向からいなし始める。振るわれる風切羽はオウガの爪を合わせ、繰り出された蹴突は歩の範囲でかわす。先程の猛攻がまるで虚実と化すほど、ことごとくが狩人の手の平の上で踊らされていた。
苛立ちが募り、耳を劈く金切り声を挙げたユピトリはしびれを切らし、本能のままに嘴を狩人の瞳に向けて突き出す。本能が滲み出たその一撃も今の狩人には意味を成さない。
身を限界まで屈め、彼女の定めが空を切ったその時、オウガの爪で固めた拳がユピトリの脳を揺らした。小さな顎にぶちかまされた的確な打撃、堪らずふらつく獣に休む暇など与えぬかの如く、狩人はユピトリの頭を片手で掴み上げ、力のまま大地に叩き付ける。
ひび割れる地、突き抜ける衝撃、頭部に多大なダメージを負った半獣は堪らず白目を剥く。ヒトの技を存分に活かし、勝利を確信した狩人は爪を構え、彼女の心臓を抉ろうと振りかぶる。
力と速さが互角となった今、技を身につけていた狩人こそが優勢を取り戻したのだと、今まさに彼自身が確信しきっていた。
そう、狩人の穢れた瞳には目の前の半獣のみが映っていた。
「―――ガァ!?」
苦しみ喘ぐ声を発したのは狩人の方。突如として爆ぜる紫電が直撃し、後方へ投げ出される。
「グウゥゥゥ……人形ォォォォ!! 貴様ァァァ!!」
二度も狩りの邪魔をされ、迸る憎悪に顔を歪めながら叫ぶ狩人。咆哮を挙げるその様はどちらが獣なのだろうか。対して向けられた彼女は気にもせず、傷だらけで倒れ臥す伴侶の元へ駆け寄り、身を庇うように寄り添う。
「そうか! そうかい! ならば望み通り、貴様等まとめてこの俺が狩り殺す! 来たるべきヒトの世のために!!!」
再三自傷を重ね、狩人は己の刃に血を込めていく。呪われし業にて、完膚なきまでに二人の命を狩り取ろうと。
「……イ…オ…?」
そんな中、辛うじて意識を取り戻すユピトリ。その顔はイオの知るいつもの彼女だった。掠れた声で名を呼ばれたイオは、ようやく戻ってきた伴侶に柔らかな笑みを向けた。
「……イオ……だめ…だよ? 逃げな、きゃ……」
「ユピトリ…私は…私はずっと、私が……私自身が…貴女にできることは一体何だろう、と考えてきました。継承者様が言われるように、私は使命以外の何も持ち合わせていない人形でした……貴女が想い、真っ白な私に日々を与え、暖かく色づけてくれるまでは。今でも、これが何なのか、私には見当もつきません。ですが、暖かなこの胸の高まりを彼に否定されたとき、私は……とても、哀しくなりました」