「この忌々しき匂い…実に芳しい。 これほど濃いのは、彼奴の下以来か。しかし…あの獣が彼奴の物とは考えにくい……どちらにせよ―――」
「な、なんで…だよ……」
オウガの爪に付着した血を払い、応えるように狩人は振り返る。辛うじて発声した吸血鬼は異形の両手剣に貫かれ、血をドクドクと流しながら、まるで剥製のように壁へ打ち付けられていた。
「俺達は…ただ逃げた人間を追ってきただけだ…戦うつもりなんてなかった…あいつ一人が居なけりゃ、俺達はやっていけなくなる。どうやったって血が足りないんだよ!」
嘆く吸血鬼の下へ、狩人は静かに歩み寄る。
「大体、ちょっと多い献血だって考えりゃ良いじゃねぇか! 誰が守ってやってると思って―――」
「堕鬼と吸血鬼の違いは何だと思う?」
「……は?」
突如として投げかけられた問いに、溢れ出る男の澱が止まる。
「私からすれば、それはヒトであるかどうかだ」
「…何を…当たり前のことを…」
「人間を家畜にするのが…ヒトか?」
「…なっ!?」
「ヒトと獣は違う。その境すら見失った貴様等など、私からすれば、そこらの堕鬼と変わりはせん。最早、貴様等はヒトの世に不要な…汚物だ」
淡々と語る狩人の声色からは、何の抑揚も感じ取られなかった。それこそ、狩人の言うヒトらしさ…人間性などは微塵もない。
「ああ、それに。貴様のソレは杞憂ではないか? 貴様等の数が減った今、何も不足などないだろうからな」
「吸血鬼狩りが、何を偉そうに…お前だってただ血に酔っただけの殺人鬼じゃねぇか!」
乱暴に吐き捨て、逃れようと藻掻くが、自身の肉がただ裂かれるばかり。
狩人は牙装を展開させたまま、血に塗れた手で柄をとる。
「私はただ、ヒトとして役目を負っている。貴様等のような汚物を排除する、という役目をな。もっとも、血税などという巫山戯た制度故か、最近は貴様等の様な汚物が異様に増えた」
更に大剣を深々と刺し込み、吹き出る鮮血が狩人に降り掛かる。全身を赤黒く染めた狩人の姿は、彼の瞳と同じように、慈悲などという言葉は存在していない。
「ならば私は…来たるべきヒトの世から汚物が消え去るその時まで……存分に狩り、殺し尽くすまでだ」
痛みに喘ぎ、藻掻くことすらままならなくなった吸血鬼の胸元へ、狩人は爪を走らせる。刹那、ねじ込まれた爪を引き抜くと、狩人の手には吸血鬼の唯一の急所である心臓が握られる。剣先で灰燼と化した吸血鬼を見届け、やがて血英と化したソレを、狩人は乱雑に握り潰した。
「ほう…? まだ向かってくるとはな」
後方の瓦礫から這い出る気配に、狩人は再び殺気を定める。黒き瞳の先には、抱えていた吸血鬼と自身の返り血で濡れた獣の姿。鮮やかだった彼女の牙装は見るも無惨に赤黒く塗れていたが、双眼の彩は変わらず真っ直ぐと狩人を捉えている
「ふむ、再生力の因子を活性化する術は覚えているか……その忌々しき匂いといい、やはり貴様、ただの獣ではないな。まぁ、汚物である事に変わりはないが」
大剣を抜き取り、血に濡れた切っ先をギラつかせながら、狩人はゆっくりとユピトリヘ歩み寄る。
既に臨戦態勢の狩人だが、ユピトリの方は未だ構える様子はない。ただ無垢な疑念の眼差しを、彼の血に塗れた瞳へ真っ直ぐに向けるばかり。それが、狩人にとってはまた気に入らなかった。
「……チッ!」
乾いた舌打ちが響くのを皮切りに、異形の刃が振り下ろされる。得物の大きさに違う片手剣のような速さの初撃、先程の爪の一撃から察したユピトリは早めの回避に移り、難なくかわす。
続けて繰り出された薙ぎ払いも同様のスピードであり、咄嗟に身を屈むも頭上すれすれ。焦りの冷汗が滲む間もなく、その上から更に斬り込まれた一刃に対し、彼女は牙装の羽を交差させて受け止める。
多くの堕鬼を斬り倒してきた実績と、それを物語る頑丈さが誇る彼女の風切羽。しかしながら先の一撃を貰った途端、自慢の羽も無惨に毀れてしまった。
堪らずユピトリは力いっぱい身をよじり、強引に刃を受け流して距離をとる。しかし予期していたかの如く、狩人は前方へと跳躍し、異形の剣先を再度突きたてる。
一振り一振りに黒き殺意を込めて振るわれる狩人の剣戟。なおも連続に振るわれるソレを、ユピトリは首の皮一枚でいなし続ける。
「…何故だ」
悉くを上手くなびかされ、多少呼吸の乱れが見える狩人。攻め続けても一向に致命の一撃を与えられず、しかし戦いの中で余裕を持ち合わせているわけでもない獣に、遅延とも呼べるべき対応を受け続けていれば、狩人が困惑するのも無理はない。
全ての風切羽がボロボロとなり、肩で息をするユピトリ。狩人以上に疲労困憊であるが、その問いに答えうるだけの余力は残っていた。
「何故、は、こっち…」
「…何?」
「殺すこと、なかった!逃げてた…のに、殺した!どうして?」
「そんな事か? ふん、汚物めが…浅慮で語るな。貴様に理解される必要など私には―――」
「血涙、欲しいの?」
「……っ!?」
「なら、私、あるよ!そこの、それ。だから―――」
「……クックックッ、そうか…貴様から見れば、俺も……クックックック…」
すぐ奥地に見えている枯渇した血涙の源を指すも、意にも返さぬように笑う狩人。いや、ユピトリの真っ直ぐ過ぎる感性からは、決して彼は笑ってなどいなかった。
そこで彼女は思い出した。まだ自分が特別な力を持っていることの説明を何一つしていないことを。思い返してみれば、ミアの時だってそうなのだ。他人から奪うよりも、もっと良い方法がある事を教えなくては、また要らぬ争いが起きてしまうと。
「あのね!私の、特別、だから―――」
「語るなと言ったぁ!!」
異形の切っ先が振り上げられた瞬間、おびただしい冥血の波が押し寄せ、大地を大きく抉り、瞬く間にユピトリを吞み込んだ。しかし、咄嗟に発動した錬血『穢血の護り』が彼女を包み込み、衝撃だけがその身に降り掛かった。