さよなら。
さよならですって。
残念ですって。
そうして、誰かが彼女に期待してる。
彼女を願い星にしようとしている。
暦はすっかり麻酔が回ってしまっているようで、今日がいつの昨日なのか、まるで明日が掴めません。
陽の傾きを見るために、窓に目をやるように、外に目を向けて見ますと。赤い霧の中の世界は、雨が止んでいました。七月の風の心が、どこかへ行ってしまったからです。あちらこちらにできた水溜りが点々とあれど、もう小さくなっていて、踏むにはつまらないでしょう。
どこかの公園の、潰れたテントからは、ビー玉やブリキの一部が転げ出ていますが、乾いた泥が付いていて、地面なのかそうで無いのか、じっくり見ないと分かりません。
すぅ、と息を吸うと、青臭く濡れた生ぬるい空気が、鼻の奥に染みるでしょう。頭の中が締まる感じに、しかめっつらになることでしょう。
空は透明で、天井の青さがよく見えます。
時計は世界旅行をしたのでしょう。月には海ができていました。
今は何時、と聞いても、答えてくれる人は部屋を出て行ってしまいましたが、きっとこれくらいは経っていたはずです。
若い葉の擦れる音。雨水が乾く音。地球の回る音。
広がり続ける元通りに、Xiの心は宥められて、今、彼女の胸は静かにざわついていました。
このまま全て、なくなってしまうかもしれない。このまま全部、無かったことにされてしまうかもしれないと。
理由はありません。ですのでこの不安は、空が落ちてくるのを心配するくらいには、馬鹿げたものでしょう。
けれどどれだけ泣いても独り。受け入れ難いが事実の孤独に、Xiの不安を否定する者もいません。それに、彼女は黙り込んでいる。
さて、どうしたものか。
XIは、自分の涙の海の水面に映る景色を、赤い目で見つめながら。頬杖をつきました。
見つめる先は、海辺に佇む一軒の家の中。きっと見覚えがあるその家の中は、思ったよりも広く、吹き抜けのロビーがあって、扉を開くと風が吹き込みます。
少し進むと、ガラス張りの部屋があります。外には植物があって、窓の前にはソファが、ソファの上にはクッションやブランケットが、その中にはユピトリが紛れています。
ユピトリの前に置かれた机には、誰かの読みかけなのでしょうか。本が開かれたまま、置かれています。
「アンシャンテ、夜鷹のトリ。ご指名かな。」
暖炉のそばに立つ彼が、落ち着いた声音で語りかけました。
「…アンシャンテ。私、は、ユピトリ。もう、トリでは、ないんだよ。」
挨拶を返しながら、ユピトリは目を細めたり、瞬かせたりしました。彼の顔が、黒い点やモヤみたいなものに隠れて、見えづらかったからです。
暖炉の火が眩しいのでしょうか。逆光に、視界が悪いのでしょうか。けれどあのオレンジ色の火は、あたりを撫でるように優しく照らしていて、目を刺すことはありません。
それに強い光を見たあと、その光の色っていうのは大体居残り続けるものですから。正直に見つめ続けた、無知の代償なのでしょう。
「失礼。idiot ユピトリ、調子は如何かな。」
「dear……。」
言いかけて、やめました。この話し方は彼ですが、ここの彼は彼ではない。なんとなく、そんな気がしたからです。それなら、敬愛する道理も無い。
彼女はお話が好きですので、名前を言えなくとも、彼と会話を続けました。
「うん。良くないよ、あまり。その、私。もう、疲れちゃって。」
「気持ちよかったですか 死んだ海は」
「ううん、全然。」
「残念。
ユピトリ。お菓子は…必要ですか」
お菓子。
口の中で、舌が踊ります。
ふと、目をやると、机の向こうに砂糖の入った瓶がありました。ユピトリはゆっくりと立ち上がり、心の動くまま、彼女の羽角や尾羽を揺らしながら、砂糖を取ろうとしたのです。
すると彼は、突然ユピトリに抱きつきました。
「すてきな つばさですね おじょうさん」
まるで北風が吹いたような冷たさが、彼女の肌に触れました。
彼の体温は、特に指先や足先には冷たさを感じるかもしれません。
とはいえ、ここは所詮夢ですので、心地の良さや悪さを決めるのは彼女自身。
誰かに触れられたかったユピトリは、彼が誰であっても、彼であると強く思い込みました。
「ね。でしょう?でも、今…飛べそうに、ないや。
なんでだろ。上手に、飛べなくて。きっと、寂しいの。勇気が、ないの。」
飛べない役立たずの翼なんて。こんなもの、なくてもいいような気もしましたが。
いらない、とは言えず、ユピトリは口籠もりながら彼の手を握りました。が、その手は簡単に振り払われ、彼は彼女から離れます。
「愛が欲しいのなら、貴様の物差しを捨てろ。」
「…あなた、と、いたい。という、これも?
今も、これから、も。変わらない、明日。が、続いてほしい。と、思ってる。
でも、でも。私。」
彼女は言葉を詰まらせました。
「それだけ。それだけよ。」
詰まった声が、絞り出されました。
思ったよりもか細い声に、自分で自分に驚きます。それから、寒さを凌ぐように自分を抱いて、ユピトりはその場でしゃがみ込んでしまいました。
1分か、10分か。心地の悪い間が生まれます。
そのうち彼は、困ったようでも怒ったようでもない、本当にただのため息を「はあ」と付いて、彼女の周りにソファのブランケットやクッションを並べ、囲みました。
「過去も未来も関係ない。今だけ見てろ」
「…………。」
何も言えず、ユピトリは口を曲げて、恨めしそうに彼を見つめました。彼も彼女の視線に気づいたのでしょう。目線を合わせるようにしゃがみ込み、今度は彼が彼女を覗き込みます。
決して心配している様子ではありません。かといって、好奇心に煽られている様子もありません。そうするのが、自然だったからです。
「…………美味しそうなら、食べてください。
禁欲はおれの前では必要ありません。」
「あのね。それ、は。嫌なの。」
「なにも気にしないで ひかりの貴女。」
そう言うと、彼はおもむろに、机の上に置かれたままの砂糖の瓶を、手に取りました。そして、あろうことか床に叩きつけました。ガシャン、と音が響くはずでした。代わりに、カラン、とグラスに入った氷が溶けて、息をする音がしましした。
あたりには、サイコロのように角砂糖が散らばります。ガラス片も散らばります。暖炉の灯りにそれらが反射して、床はキラキラと輝き始めます。星空に来てしまったのでしょうか。
彼は散らばるガラス片の、そのうちの一つをとって、手のひらに乗せました。その手を高く持ち上げると、一思いにガラス片を握りしめました。
枯れた花びらが落ちるように、ぽた、ぽたと赤い血が星空に滴り落ちます。
「貴方にこの血 どううつりますか。」
「…美味しそう。ううん。私、いつも、お腹。空いてる、から。そう、思ってしまう。ごめんなさい。でも、でも。仕方が、ないの。私の、お腹。いつも、空っぽで。
でも、私。あなた、と、友達、に。なりたい。だから、ね。嫌なの、あなた、を、食べるの。」
すると突然、天井から吊るされた電球のあたりから、声が投げられました。
「ひとりで彼を殺せないでよかったね」
その声に応えるように、彼が悶えはじめました。
彼は、叫びます。頭を抱えます。嘔吐します。震えます。
何が起きたのでしょう。わかりませんが、わからないので彼女はその様子を、ただ黙って見ていることにしました。それが彼女の、自然だったからです。
「あ ァあああなた、あー アー あッ はあ~~~~~~~~な、なん な、 な、なに
だれ かみさま? あ、あ、っ」
なんとなくですが、その時ユピトリは、自分と彼が入れ替わったように感じました。
不思議な感覚です。ユピトリの目には彼がいるのに、彼の姿が自分自身に見えるのです。自分なのに、自分じゃないような感覚。
まるで他人事。いいえ、他人事。
「ひかりの皮をかぶった なに…?」
ひかりの皮を。ひかりの皮?とは、なんだろう。彼女は少し、考えました。
なんだろう。自分を、光だとか白だとか、黒だとかそんなこと。ユピトリにとってどうだっていいのです。
あなたはあなた。私は私。
先ほども同じことを言いましたが、自分にも言い聞かせるように、ユピトリは同じことを言うのです。
「私、は…………私。ユピトリだよ。」
それが、魔法の呪文になったのでしょうか。風が、窓を開けて飛び込んで、視界を邪魔するものを揺らしました。彼の顔が、見えそうになったのです。
「____たすけて」
「うん。
あのね。私、あなた、を。探してたんだ、よ。」
もう少しで、彼に会える。彼に会いたいな。
ユピトリは顔を上げ、彼に手を伸ばしました。が、その手は赤くぬらぬらと照っているじゃありませんか。
自分の手を見てあっけに取られ、ギョッとして驚いていると。風は止み、視界はまた元通り。
「ユピトリ
身体、洗いなさい」
「どうして。」
本心でした。
「…………その汚い血を落として 話は、その後です」
大事なものを、汚いだなんて。
憤って、ユピトリの声が強くなります。
「汚く、なんか。汚く、なんか、ないよ。ないよ!」
怒った彼女が、彼に食ってかかろうとした時。目の前には、彼の手がありました。
「…………つかれました
___起きなさい お寝坊さん
ぼく わたし
あなたのこと だいきらい」
平坦な、無表情な声が終わると。瞬間、彼の手から、今ここにあるどの灯りよりも強い光が、ユピトリに放たれました。
光速の眩い槍が、瞳孔の向こう側、脳に直接刺さります。
痛くて、眩しくて、渋くて、苦しくて。ユピトリは後ろにひっくり返り、血濡れの手で両目を抑え、声にならない声で鳴きました。
「…………僕は個人的な理由で、あなたが憎い」
彼の声色が、変わりました。
「⋯⋯⋯⋯嫌味も出てこない⋯⋯あぁおれ、あんた⋯⋯嫌いだよ⋯世界一嫌い⋯いますぐ地獄に落ちて欲しい あー⋯あ、あー⋯⋯⋯、きらいきらい⋯うん⋯嫌い⋯だいきらい⋯⋯いやが
らせする気も起きない⋯あんた あーうん⋯⋯⋯きらい⋯きらい⋯きらい⋯きらい⋯⋯」
「なんで。なんで。どうして。」
「~ー、to sides…it gonna be toni~ー♪」
~rk days,I`m terrified,…Iknow that som…、…right
And I wonder、…if he knows what ……………」
歌声が聞こえます。彼の、きっと好きだった曲。
最初こそ聞き取れはしましたが、やがて歌が鼻歌に替わる頃。ユピトリは自分のお腹の中に、冷たい感覚があるのに気がついて、盲目のまま違和感の元を弄りました。そして思い出すのです。
ああそうだ。私、お腹を刺されたんだ。
「私、あなた、に。何も。何も、してない、のに。
…何も。」
ハッとしました。
そうだった。何も、していないじゃないか。
「…でも。私、あなた、の、こと。…………それでも、好き。」
「ああありがとう 好いてくれて どうもありがとう それで?
私は好きが分からない
ああいや、知りたくない」
刀が、腹から抜かれました。
何度も、何度も、何度も目を擦り、擦って、そうしてようやくまた目が見えるようになると。
血が目に入ったからでしょうか。あたりは見渡す限り、赤い世界になっていました。
枯れた命が泳ぎ、不自由がここにあります。
「残念ながら、審判はご不在だ。
もはや誰にも止めようがない。」
「…嫌。」
「きたない⋯⋯⋯⋯きたないきたない!嫌嫌いやいやいやしねしねしねしね!!!!!いたい、しね、しね、しね、出て行け出て行け しね!いたい、しね でていけいたい、いっあーー⋯っは、はあ、しね、んふ、しね しねしね、あっは でていけ しね ンフ、死ね」
「やめて。ねぇ。やめて。
私、それ。嫌。嫌なの。怖いの。」
やめてよ。
声は、篠突く雨のように彼女に降り注ぎます。悪意の声で、心が決壊します。部屋にも悪意が漏れ、満ちていきます。
もう嫌だ。嫌。私だって、もう嫌だ。
せっかく見えるようになった目を固く閉じ、擦り続けていた手を耳に当てがい、ユピトリは彼の言葉を塞ぎました。ますます目を覚ますのを、怖がりました。
それでも忙しなく聞こえる彼の声は、どうやら脳裏から聞こえているようで、これじゃあこんな世界、大嫌いになってしまいそうになって。
彼女は目にいっぱいの涙を溜めて、震えました。
「ねえユピトリ 冷たい毒の味って知ってる?」
嫌味のように、彼が問います。
「…………。」
ユピトリは頷きます。
「ユピトリ。…大きくなっても、俺を見つけてくれよ。」
「…約束。」
「ここを出なさい。そして、二度ときちゃいけない。」
お願いユピトリ。俺を、見つけて。」
「…………。うん。」
もう一度、彼女は頷きました。
「私、のこと、も。見つけて、ほしいな。なんて、ね。」
長い夢は、ここで終わりです。
麻酔から目覚めた時が、緩やかに動きだしました。
ユピトリはもう、自分の意思で目を開けられます。体も動かせます。あくびもできます。
おはよう。
起き上がった彼女は。世界に一つ、あいさつをしました。