ジズはため息を吐いて、心底冷めた目付きで、纏わりつくそれを見た。
妙に気持ちの悪い手触りを確かめて、苦茶を飲んだような顔をする。
袖を引っ張ったり、ない埃を払ったり、息を吹きかけたりした。
「鬱陶しい」
「…なあ」
ジズは元来た道へと足を進めた。
「オマエのせいで一人でクソも自慰もできない」
ジズは道中の木を蹴り、花を踏んで、立ち止まった。
少し前に花に積もる雪を退けたあの男は、いない。
「無許可でボクに踏み入るな」
遠くに、見知った子供が倒れている。
ジズはユピトリをみつけて、歩みを再開した。
「ここを出たらオマエ 燃やすから」
「死にたくなかったらさっさとボクから離れろ」
ぶつぶつと会話の成り立たない生物に独り言をぶつける。
つめたくなったユピトリのそばにしゃがみ込んで、薄く積もった雪を退ける。
冷えたからだを肩に担ぐと、にせものの上着が湿る。
それ以降ジズは生物に声をかけることなく、双子の拠点へと向かった。
どれほどため息を吐いたって、全部全部風の中。
獣の雲の、風の一つになってしまうので、あなたの悪態はこの獣には通りません。
どれほど冷たい目をしたって、全部全部雲の中。
獣の風に、雲に隠されてしまうので、あなたの気持ちはこの獣に通りません。
それどころか、やっぱり、獣は歌を歌うのです。
コップのフチを指でなぞったようなあの声を、辺りに靉靆(あいたい)させるのです。
まったく、たまったもんじゃありません。これではあなたの在処が、見えてしまうじゃないか。
けれどこれはただの風。
ただのうるさい風の音。
「___♪」
獣は歌を歌います。隣で誰も聞いていなくたって、歌を歌います。
「…………。」
ユピトリはクタクタなので、ジズに抱き抱えられたって気づきません。獣の声も耳に届いていません。
ですので、もし首を絞めるなら、今。
だって、手足を垂らして、固く目を閉じてしまっている彼女は心が空っぽなので。いつだって死んでしまえるのです。
でも、でも、次に目を覚ましたなら。みんなと笑えたらいいなぁ。
夢を願えば夢は夢のままなのに。いまだにそんな夢を見て、彼女は枯れた庭のある、森の古い家に連れて行かれました。
「思い当たる節がないわけじゃないだろう」
「…………」
ひとりは、横になる白髪の青年の手を握って、
ひとりは、同じく横になる凍死寸前だった少女のすぐ側にあぐらをかく。
「目が、見えなくなるかもしれないし」
「声だって、出なくなるかもしれない」
ニアとジズは向かい合って、それからニアは俯いた。
「なっ、そ、そんなの…、なんで…」
「言うなって、言われてたんだけど」
ニアはチルの手を握りしめて、唇を噛んだ。
「…………聞きたく、なかっ…」
「治る」
たった一言に、ニアは目を見開いて顔を上げた。
「………本当に?」
「ボクは嘘をつかない」
ニアがチルを抱きしめると、チルが少し身じろぐ。
ジズは立ち上がって、窓際へ移動した。雪合戦の跡がある。表情は見えない。
「ボクの弟が方法を知ってる」
「話は通してあるし、部屋も用意してある」
「上手くやれ」
そういうとジズは振り返り、いつもの調子で言った。
「二人の目が覚めたら、移動しよう」
誰かが、彼女の死を待ち望んでいる。
彼女は誰かの願い星。その誰かっていうのは分かりませんので、みんなの願い星にもなれるのです。
誰かが、彼女の生を願っている。
その誰かっていうのは、いったい誰なのでしょう。彼女は願い星では無いというのに。
しばらく待ってみても、ユピトリは目を覚ましそうにありません。
人に囲まれて、少しずつ暖まった血が心臓の喉を潤して、体の全部へ巡ってみても、花びらを落とすように揺さぶってみても。彼女はまぶたを開けようとしないのです。
『アンシャンテ。』
寂しくて、寂しくて、寂しくて。どうしようもなく寂しくて、仕方がなくて、それでも諦めたくなくて、慰めにならない夢に縋り続けていたものだから。
死の間際に見てしまったさっきの夢に、灯火が映し出した今日までの思い出に、気が付いてしまいそうになったのです。
というのも嘘。もうとっくに、気が付いているというのに、気が付いていないふりをして、必死に目を逸らそうとしているのです。無理をしすぎてしまったのです。
空想の世界は、こんなにも狭い家なんかとは比べようもなく広いですし、まどろみの中は、静寂が賑わっていて、重い鐘の音なんかよりもずっとずっと心地がいい。
いつまでもここにいる方が、きっと幸せなのでしょう。けれどここでは無いどこかへ逃げてしまいたい。
誰かに、あなたに愛されたい。
あなたに、慰められたい。
誰かに、抱きしめられたい。あなたに、触れられたい。
名前を、呼ばれたい。
恐ろしかったのかもしれません。いえ、恐ろしかったのです、まぶたを開けるのが。
彼女は、誰かの願い星になるでしょう。けれど彼女の願い星は、暗くてどこにもありませんでした。
ふと、ジズの纏う雲から、指揮者が顔を出しました。頭にある、風向きを知るために伸びている鶏冠が、下を向いたからです。
指揮者は風ですから、鶏冠の向きを決めるのは自分自身のはずでした。
指揮者は雲ですから、風の向きにはとても敏感でした。
一体全体、どうしてだろう。
不思議に思った指揮者は、雲から身を出して、下から風を巻き上げました。
開いた本があれば、パタンと閉じてしまうほどの風です。
ふわり、と鶏冠が上向きました。
風が止めば、向いた分だけ下がりました。
はてさて、どうしてだろう。
指揮者は次に、ネズミのように、壁伝いに部屋中を歩き見て回りました。
古時計に似た足音が響きます。
たった針の穴ほどだけでもかまいません。小さな隙間は無いかな。外に繋がる道は無いかな。
けれど、どうも風が入り込めそうな隙間は見つかりそうにありません。
じゃあ、やっぱりどうしてだろう。
不思議が止まりません。
指揮者は、今度は子供たちの側にいって、それぞれの顔を覗き込んでみることにしました。
一人は、目を閉じて、眉間に少し力が入っている。
一人は、目を開いて、けわしい口元をしている。
一人は、目を閉じて、真っ平らな表情をしている。
わはは。なんて変な顔!
「_____♪」
あまりにも可笑しくて、指揮者は歯を見せて笑いました。それから、馬鹿にするように、わざわざみんなの顔を真似てしまったのです。
眉間にシワを寄せて、むつかしく口を尖らせて、無表情になってしまったのです。
よせばよかったものを。そんな愚かな事をしてしまうから、指揮者は、分かってしまったのです。
困った気持ち、不安な気持ち、寂しい気持ち。
みんなの気持ちの向く方角。
この鶏冠は、どうやらただの風向計ではないようです。
風は、他人の気持ちを考えた事なんてありませんでしたから、驚くにはそれだけで十分でした。
「__、__。」
旋律が乱れます。
いつだって、綺麗な歌を歌っていたいものだから。
指揮者は慌ててジズの隣へ行って、一緒に窓の外を見て、雪合戦をしたときの、自分の気持ちを思い出して、取り戻して。
また、朗らかな笑顔になりました。
不思議を知った指揮者は満足して、抱きつくようにジズの雲に戻ります。
古時計のような足音が無くなった部屋には、元通りの音が広がります。