5章 48


 ジズはため息を吐いて、心底冷めた目付きで、纏わりつくそれを見た。

 妙に気持ちの悪い手触りを確かめて、苦茶を飲んだような顔をする。

 袖を引っ張ったり、ない埃を払ったり、息を吹きかけたりした。


「鬱陶しい」

「…なあ」


 ジズは元来た道へと足を進めた。


「オマエのせいで一人でクソも自慰もできない」


 ジズは道中の木を蹴り、花を踏んで、立ち止まった。

 少し前に花に積もる雪を退けたあの男は、いない。


「無許可でボクに踏み入るな」


 遠くに、見知った子供が倒れている。

 ジズはユピトリをみつけて、歩みを再開した。


「ここを出たらオマエ 燃やすから」

「死にたくなかったらさっさとボクから離れろ」


 ぶつぶつと会話の成り立たない生物に独り言をぶつける。

 つめたくなったユピトリのそばにしゃがみ込んで、薄く積もった雪を退ける。

 冷えたからだを肩に担ぐと、にせものの上着が湿る。

 それ以降ジズは生物に声をかけることなく、双子の拠点へと向かった。



 どれほどため息を吐いたって、全部全部風の中。

 獣の雲の、風の一つになってしまうので、あなたの悪態はこの獣には通りません。

 どれほど冷たい目をしたって、全部全部雲の中。

 獣の風に、雲に隠されてしまうので、あなたの気持ちはこの獣に通りません。


 それどころか、やっぱり、獣は歌を歌うのです。

 コップのフチを指でなぞったようなあの声を、辺りに靉靆(あいたい)させるのです。


 まったく、たまったもんじゃありません。これではあなたの在処が、見えてしまうじゃないか。

 けれどこれはただの風。

 ただのうるさい風の音。


「___♪」


 獣は歌を歌います。隣で誰も聞いていなくたって、歌を歌います。


「…………。」


 ユピトリはクタクタなので、ジズに抱き抱えられたって気づきません。獣の声も耳に届いていません。

 ですので、もし首を絞めるなら、今。

 だって、手足を垂らして、固く目を閉じてしまっている彼女は心が空っぽなので。いつだって死んでしまえるのです。


 でも、でも、次に目を覚ましたなら。みんなと笑えたらいいなぁ。

 夢を願えば夢は夢のままなのに。いまだにそんな夢を見て、彼女は枯れた庭のある、森の古い家に連れて行かれました。



「思い当たる節がないわけじゃないだろう」

「…………」


 ひとりは、横になる白髪の青年の手を握って、

 ひとりは、同じく横になる凍死寸前だった少女のすぐ側にあぐらをかく。


「目が、見えなくなるかもしれないし」

「声だって、出なくなるかもしれない」


 ニアとジズは向かい合って、それからニアは俯いた。


「なっ、そ、そんなの…、なんで…」

「言うなって、言われてたんだけど」


 ニアはチルの手を握りしめて、唇を噛んだ。


「…………聞きたく、なかっ…」

「治る」


 たった一言に、ニアは目を見開いて顔を上げた。


「………本当に?」

「ボクは嘘をつかない」


 ニアがチルを抱きしめると、チルが少し身じろぐ。

 ジズは立ち上がって、窓際へ移動した。雪合戦の跡がある。表情は見えない。


「ボクの弟が方法を知ってる」

「話は通してあるし、部屋も用意してある」

「上手くやれ」


 そういうとジズは振り返り、いつもの調子で言った。


「二人の目が覚めたら、移動しよう」



 誰かが、彼女の死を待ち望んでいる。

 彼女は誰かの願い星。その誰かっていうのは分かりませんので、みんなの願い星にもなれるのです。

 誰かが、彼女の生を願っている。

 その誰かっていうのは、いったい誰なのでしょう。彼女は願い星では無いというのに。


 しばらく待ってみても、ユピトリは目を覚ましそうにありません。

 人に囲まれて、少しずつ暖まった血が心臓の喉を潤して、体の全部へ巡ってみても、花びらを落とすように揺さぶってみても。彼女はまぶたを開けようとしないのです。


『アンシャンテ。』


 寂しくて、寂しくて、寂しくて。どうしようもなく寂しくて、仕方がなくて、それでも諦めたくなくて、慰めにならない夢に縋り続けていたものだから。

 死の間際に見てしまったさっきの夢に、灯火が映し出した今日までの思い出に、気が付いてしまいそうになったのです。


 というのも嘘。もうとっくに、気が付いているというのに、気が付いていないふりをして、必死に目を逸らそうとしているのです。無理をしすぎてしまったのです。


 空想の世界は、こんなにも狭い家なんかとは比べようもなく広いですし、まどろみの中は、静寂が賑わっていて、重い鐘の音なんかよりもずっとずっと心地がいい。

 いつまでもここにいる方が、きっと幸せなのでしょう。けれどここでは無いどこかへ逃げてしまいたい。


 誰かに、あなたに愛されたい。

 あなたに、慰められたい。

 誰かに、抱きしめられたい。あなたに、触れられたい。


 名前を、呼ばれたい。


 恐ろしかったのかもしれません。いえ、恐ろしかったのです、まぶたを開けるのが。

 彼女は、誰かの願い星になるでしょう。けれど彼女の願い星は、暗くてどこにもありませんでした。


 ふと、ジズの纏う雲から、指揮者が顔を出しました。頭にある、風向きを知るために伸びている鶏冠が、下を向いたからです。


 指揮者は風ですから、鶏冠の向きを決めるのは自分自身のはずでした。

 指揮者は雲ですから、風の向きにはとても敏感でした。


 一体全体、どうしてだろう。

 不思議に思った指揮者は、雲から身を出して、下から風を巻き上げました。

 開いた本があれば、パタンと閉じてしまうほどの風です。


 ふわり、と鶏冠が上向きました。

 風が止めば、向いた分だけ下がりました。


 はてさて、どうしてだろう。

 指揮者は次に、ネズミのように、壁伝いに部屋中を歩き見て回りました。

 古時計に似た足音が響きます。


 たった針の穴ほどだけでもかまいません。小さな隙間は無いかな。外に繋がる道は無いかな。

 けれど、どうも風が入り込めそうな隙間は見つかりそうにありません。


 じゃあ、やっぱりどうしてだろう。

 不思議が止まりません。

 指揮者は、今度は子供たちの側にいって、それぞれの顔を覗き込んでみることにしました。


 一人は、目を閉じて、眉間に少し力が入っている。

 一人は、目を開いて、けわしい口元をしている。

 一人は、目を閉じて、真っ平らな表情をしている。


 わはは。なんて変な顔!


「_____♪」


 あまりにも可笑しくて、指揮者は歯を見せて笑いました。それから、馬鹿にするように、わざわざみんなの顔を真似てしまったのです。

 眉間にシワを寄せて、むつかしく口を尖らせて、無表情になってしまったのです。


 よせばよかったものを。そんな愚かな事をしてしまうから、指揮者は、分かってしまったのです。

 困った気持ち、不安な気持ち、寂しい気持ち。


 みんなの気持ちの向く方角。

 この鶏冠は、どうやらただの風向計ではないようです。

 風は、他人の気持ちを考えた事なんてありませんでしたから、驚くにはそれだけで十分でした。


「__、__。」


 旋律が乱れます。


 いつだって、綺麗な歌を歌っていたいものだから。

 指揮者は慌ててジズの隣へ行って、一緒に窓の外を見て、雪合戦をしたときの、自分の気持ちを思い出して、取り戻して。

 また、朗らかな笑顔になりました。


 不思議を知った指揮者は満足して、抱きつくようにジズの雲に戻ります。

 古時計のような足音が無くなった部屋には、元通りの音が広がります。


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