5章 47


 コツンコツン。コンコンコン。ズー。ボリボリ。

 空の容器を叩く音。ジュースをストローで吸う。氷を砕く。


『    』


 ごそごそ、もぐもぐ、ごくん。

 甘いべたべたがついた指を舐める。

 依り代が泣いている。またポップコーンを掴む。

 なんにも聞こえない。聞こえないふり。


『アハハ』


 笑って、口の中で氷を砕いた。


 ___


 全身がじぶんのものじゃない。今、ここで血管が動いていて、あ、まただ。

 頭がぼうっとする。頭で何か鳴っている。眠い。なんなんだろう。

 ずっとどきどきして、体が浮いてるみたい。だれか、わたしを呼んでる?


「……___ル!チル!」


 頭に声が響く。ふわふわ眠れそうだったのに、呼び戻された。


「ん……」


 知らないひとはわたしのおでこに手を当てて、首をさわって、うでをさわって、目を覗き込んでくる。なに?あなた、なに だれ?さわらないで…


「聞こえるか、見えてるか?ボクの言ってる事が分かるか?」


「…………わかりますから、さわらないで…」


 そう言うと、知らない人はわたしを放した。あつかった。

 溶けちゃうかと思った。体温が50度ぐらいあるのだろうか。

 わたしは立ち上がって、衣服を整えて、窓をみた。知らない人は、きらい。


「……ボクはジズ 落ち着いたら、君の話をしよう」


「…………」


 はやく帰ってきて。ニア。


 _____


 炎が、枝が雪に落ちる瞬間が長かった。


 ニアは弱々しく消えていく炎を見つめて、瞬きをしなかった。そのあとにぎょろり

 と、視線だけをユピトリに向けた。


「…………ああ 悪い」

 火が苦手だったんだな 許してくれ もうしない」


 表情が動かない。謝罪をしながら、とっくに火の消えた枝を視界に入れて話してい

 る。


「…………」


 それからニアははっとして、ジズの方を見た。

 が、そこにはもうジズはいなかった。


「~クソッ!!!おいアンタ!早くしろ!置いてくぞ!!!」


 何かに焦った様子で、そう言い残して。

 枝も炎も、花も雪も気にかけず、凄い勢いで走っていった。



 窓が軋む。


 直後、ガラスの割れるような音が響きました。雷が落ちたのです。

 それは、指揮者の獣が蹄を大地に打ち付けた音でもあって、つまり今、獣が地上に降り立ちました。

 押し寄せる風に、庭の枯れた花は散り飛びます。池は波立ち、岸を飲み込みました。

 家が粗末な造りなら、屋根もズレてしまっていたでしょう。あたりには風が立ち込めます。


 獣は、巡り巡る季節の円を切った者を探すために、ここまでやってきました。

 世界の端、山のどこか、森の奥深く、古い家のあるここまでやってきました。


 凄まじい轟音の足音をさせたり、1日足らずで世界を巡るのですから、それは一体どれほど大きな獣なのでしょう。巨大な怪獣なのでしょう。

 風の隙間から姿が見えますので、獣をよく見てみましょう。

 体は犬のようにも馬のようにも見えます。雲の立派なたてがみに、頭より長い一本のツノを額に持ち、足にはヒスイのような蹄を履いています。

 学のある者なら、ユニコーンを思い出すかもしれません。


 そして、おや、指揮者の獣は想像よりも大きくは無いようです。どうやら、このあたりにいる人達よりも小さいようです。


 獣は、チルを見ました。見て、瞬きも要らないほどの極瞬間に姿を消したと思えば、窓の前まで現れました。あまりの出来事に、まるで獣が点滅したように見えるかもしれません。

 けれどどうして、隙間風になって家の中に入らなかったのでしょう。だって家の中に、チルの後ろにジズがいたからでした。


 指揮者の獣は、チルを睨めています。



 _____



 ユピトリは、走り去る彼を見届けた後、またしゃがみ込んでしまいました。そして今度はうずくまらず、雪の積もる冷たい地べたに寝そべりました。眠たくなってしまって、仕方がないのです。


 かけられた上着の下の、濡れた牙装は、まるで氷のように冷たくなってしまっています。

 だからでしょうか。そのせいでしょうか。心までも冷たくなってしまったのか、彼女はこれから、寒さに耐えられず死んでしまうというのに、生きたいと思う気持ちが、抗うきもちがまるで起きないのです。


 もしかしたら、無償の奇跡が起きないかな、誰かが助けてくれないかな。なんて思って、甘えて不貞腐れているのかもしれませんけれど。けれど、うん。疲れたんだ。



「チル」


 自分から目を背ける彼に、呼びかける。手を引っ張って、後ろから抱き寄せた。

 ジズの大きな手が、チルの成長しきっていない片手を握りしめた。


「大丈夫、ボク 強いから」

「この家の鍵の位置を全て教えて」


 目の裏が点滅していたチルはようやく視界を取り戻し、獣に怯えながら、握られた手

 を恐る恐る上げて、ひとつずつ鍵の位置に指をさす。


「玄関と、台所と、つ」

「うん」

「ここの窓と、厠、と、つう、」

「いい子だ」


 チルは先程のつんとした態度とは打って変わって、涙を溢れさせ、泣きじゃくって、震えて、嫌いだったジズの手を強く握り返す。

 チルが指を刺した場所に、魔力が満ちる。


「ああっ、うう、!と、となりの、まどっ~!」


 最後の場所を指刺すと、チルは畳の上へ力なく倒れてしまった。

 子供を受け止めるはずの男は、上着だけ子供に掛けて、その場から消えてしまった。


 すん、と鼻を鳴らして、薄着の男が獣の背後に立っている。

 足元の雪を拾って、丸めて、獣の足元に投げた。


「言葉通じる?」


 土を混ぜた雪玉を、獣の足元に投げる。


「通じないよな」


 石を詰めた雪玉を、獣の足元に投げる。


 遠目に家の中を窺う。ニアが戻ってきて、チルの肩を揺する。

 あーあ、睨んでるな。どうしようか…、…………あ。

 ジズは何かを思い出した顔をして、顔を顰める。


「……ボクね 忙しい」

「ゆっくり茶してる時間なんて ない」


 ジズは構えない。

 素手で雪を擦り合わせて、うすら笑いを変えない。



 いくら古びた家とはいえ、戸締りをしっかりとされてしまったのなら、獣は隙間風になったって、家に入り込めません。それに、額のそれは、ツノのように見えますが、雲の指揮棒ですので、窓を貫くことはできません。

 ですので、指揮者の獣は、ジズの方へ体を向けました。


 確かに、あなたの考え通り、指揮者の獣には言葉が通じません。わかりません。理解ができません。

 だって、雨は、風は、嵐は、あなたたちやわたしたちと同じ時間を持ちませんので、ということは、あなたたちだって、これの心は、きっと理解できないでしょう。

 ですので、分かろうとしなくてもいいのです。


 獣は、雲の形が変わるように、獣の形から、あなたたちのような形に変わりました。

 人の形になった指揮者は、小さな手で雪を集めて、雪玉を、土まじりの雪玉を、石まじりの雪玉を、ジズの足元に投げてみせました。


 空に唾を吐いたら、自分にかかるでしょう。それと同じことです。

 本来、指揮者は空にいる者でしたので、これに雪玉を投げたらなら、雪玉が返ってくることは当たり前なのです。


 もちろん、そんな当たり前の事を、やはり今更、分かろうとしなくてもいいのです。

 けれど考えることくらいは、してみてもいいのかもしれません。どうして、今地上にいる空が雪玉を投げ返したのでしょうか。どうして指揮者の獣が姿を変えたのでしょうか、とか。


 例えば。邪魔をするなと警告しているのかも。例えば。雪合戦が楽しかったのかも。

 例えば。理由はないのかも。例えば。ここら一帯を吹き飛ばそうとしているのかも。


 例えば。ジズが、指揮者の時間に触れたからからかも。


 指揮者はもう、先ほどまでの怒り狂ったような目をしていません。かといって、ジズのようにうすら笑いもしていません。

 屈託なく、にっこりと笑っています。


「___♪」


 あなたが、重たい上着を脱いだから。

 雲の白さは、きっと月には映えないでしょうけれど。指揮者は雲になって、上着のようになって、ジズに取り憑いてしまいました。

 風は止み、あたりに静けさが戻ります。

<< 47 >>