ジズは振り返らず続けた。
「名前はニア。それじゃあ試しに呼んでみるといい。ボクは機嫌を損ねているから、キミの奇声を聞いたさっきのばけものの残党が襲ってきても、助けてあげないよ」
喋るのは嫌いではないらしい。傘の持ち手をくるくる弄んで、ビニールが雨をはじく。
「キミは精肉工場の機械だ」
「ボクは専属の⋯そうだな ニワトリだ」
「機械のキミは卵を次々に割って、ボクの卵も何食わぬ顔で割った」
「ボクは自分の産んだ卵が壊されて、悲しんだ」
「でもホンモノのボクらの昨日の朝食は、蒸し鶏だったり⋯目玉焼きだったりする」
「どうってことない キミがボクの孫を食ったって」
ジズは立ち止まって、傘を閉じて振り返った。
「なあ」
「キミが食ったのは、キミと同じ形をした"人間"だ」
「自我はどこにある?」
「キミが記憶のないふりをしているなら、今。ここで死んでくれ」
「どうせ糞になるボクの孫を本当に覚えていないなら、雇い主を吐け」
殺気立って襲うでもなく、走ってくるでもなく、そこに立っている。
「なんでここまでって思うだろうが、キミは運がなかった」
「ジジイ鶏に見つからなかったら、良かったのにね」
ジズが閉じた傘の先をユピトリ目掛けて構えると、ユピトリに対して、強い向かい風が吹いた。風は止まぬまま、傘の先を地面に下ろした。
「言い訳があるなら、聞かせてくれるかい」
「え。…え?」
ユピトリは、背中のあたりが冷たくなった気がした。
髪の毛が揺れる。飾っていた花は、頼りなさそうに髪にしがみついたが、ついには力尽きて落ちてしまった。
花は、くるくると回されながら、雨水に流されていこうとする。ユピトリは、それをどうしても拾うことができなくて、立ち尽くしていた。
「え。…………。」
いくら思い出しても、本当に誰かの家族や、そもそも人を食べた覚えなんてない。
もしかしたら、言葉を教わるずっと前に食べていたかもしれないけれど、それは堕鬼だったし、やはり誰かを食べたなんて覚えていなかった。
困ってしまって、ユピトリはジズを見る。
食べたことは思い出せないけれど、代わりにヴァイスを思い出す。それは匂いだけのせいじゃない。彼に面影があるからだった。
先程の言葉と合わせて点と点が結びついて、もしかして、とユピトリは気付いた。
「ジズ、は。ヴァイス、の。…家族?」
それなら尚更、食べた記憶なんてなかった。
友達を食べるなんて、そんな酷いこと。するはずがない。するはずがない!
それに、
「だって、ヴァイス、は。走って、どこかに…」
そうだ。行ってしまったんだ。傷をくっつけたら、彼はどこかへ走って行ってしまったんだ。
行ってしまった後のことだって、ユピトリはよく覚えている。
逸見がやってきて、彼に脇腹を刺されて地下室に連れて行かれたこと。同族の彼の血を飲まされて、血に乾いてきっとどうにかしてしまったのだろう。気を失ってしまって、次に目を覚ましたのは寂しい部屋の中だった。
ネクロが介抱してくれていたのだろうか、脇腹や渇きは治っていて、冷たいシャワーに打たれていたのを、彼女は覚えている。
漠然と、心に喪失感や疲労感はあったけれど、地下室での出来事は、思い出したくないほど恐ろしいものだったので、そのせいだろうとユピトリは考えていた。
だから、本当にヴァイスを食べた記憶なんてなかった。
「…………ない。食べて、ないよ。
私、ヴァイス、のこと。食べて、ないよ!」
ぞくり。
言い切った瞬間、ユピトリの体が震えた。憤りや高揚、雨の冷たさのせいではない。
ほんとうに?と、自分の心に尋ねる声がしたからだった。
「…………。」
もしも。もしも例えば、ジズの言うように自分の自我が別の場所にあったりして。
私は、本当の私じゃなかったりして。私じゃない本当の私が、ヴァイスを食べてしまって。
それは、別のどこかを歩いているのだろうか。知らないことをしているのだろうか。
「私。私。は。…ユピトリ。」
ほんとうに?
ほんとうにあなたはユピトリで、ユピトリはヨタカの女の子で、ユピトリの名前はユピトリのもの?ほんとうに?
手も、足も、くちばしも、つばさも、目も、模様も、尾羽も、髪の毛も、肌も、全部ユピトリのものなのだろうか。ほんとうに?
声が、心に問いかける。
ずっとずっと前。ユピトリがユピトリになる前。その時から、あなたはユピトリだったのだろうか。ほんとうに?
「…………。」
所詮、記憶なんてそんなものだった。
整合性がなくたって、散って欠けてしまったって、水よりも形のないものですから、案外ちょうどよく辻褄を合わせられてしまう。大地のように続いているように見えるのは、そう見えるだけであって、本当は雲のように途切れていることだってある。だから夢なんて無かったことにされてしまう時だってある。
ユピとトリも、ヴァイスも。みんな同じ夢。奪われてしまった同じ夢。
二、三目を泳がせてから、俯きながら彼女は彼の表情を見た。
きっと何一つ変わらない表情。ああ、ヴァイスも、こんな感じだったなぁ。
「私が。ユピトリじゃ、無かったら。誰が、ほんとうのユピトリで、それじゃあ、私は。誰なんだろう。」
はじめは弱々しいものだったけれど、だんだんと、いつも通りの声色になって、ユピトリは尋ねた。
「ほんとうの、私が。ヴァイスを、食べてしまったなら。今の、私、は。ユピトリじゃ、ないのかな。だって、ほんとうに…食べて、ないの。覚えて、ないの。
ほんとうの、こと。言うと、ね。私、私なんて、分かんないの。生まれた、理由。分かんないの。
ので、ごめんなさい。言い訳。ニア、が、見つかるまで、に。考えさせて。」
それが、精一杯の延命だった。
花は、行き先と反対の方へ、ずいぶんと流されていた。彼女はそれを拾いに行って、次は落ちないようにと、牙装のボタンのあたりにしっかりと結びつける。
再びジズの元に戻ってきた彼女は「行こう」と、彼の目指す場所へ足を進めた。
『そうかい』
言い訳にしか聞こえない長い長い鳴き声に、たった一言で返事を返した。
ぐずぐずになった靴の底を気にかけて、目線を下にやる。やはり口角は下がってはいなかった。
雨の染み込んだ土の匂いがする。傘の先を土に刺して歩く。踏み込んだ足先に水気を感じる。遠くに知る気配がある。鼻の奥がつんと痛い感覚がする。
「自覚って知ってるかい」
そう告げた直後、辺りは一面雪景色に変化した。
構わず足を進めると、靴裏がざくざくと音を鳴らしている。
「知的探究心の対象になる自覚をしなさい」
「自分の腹中に、目の前のジジイの孫の残片があることを自覚しなさい」
ジズはそう言って、道中に咲いた花に積もった雪を退かせた。
そう言って、雪を拾い集めて雪玉を作った。
「キミの腹の中の残片が湧き上がる可能性を自覚しなさい」
そう言って、雪玉を遠くへ投げた。
「ボクがキミの中の残片を湧き上がらせる可能性を、危惧したほうがいい」
「ボクがキミの味方ではないと、いい加減認めたほうがいい」
ジズは変わらぬ調子で足を進める。
傘の先を雪にさして、歩いた跡を作る。傘の先を雪に沈めて、歩いた線を描く。