あなたの目が、雨の中元気に歩き出してしまうはずだった。
歩き出した目はあちこちへ行って、目を離した隙に、輝いている桃色の世界まで行くはずだった。そのうちに世界の裏側まで行くはずだった。
全ては夢ではないはずだった。
あなたが見たそらの景色は本物だし、そこへは辿り着けないのも、そこには意味がないのも本当のはずだった。
それを知っていながら、あなたに知ってもらいたいことがあった。それは祈りみたいなものだった。あなたに気づいて欲しいことだった。
名無しの彼女が欲しいものは、はじめましてのご挨拶。
そうでした。Xiはただ、名前が欲しいだけでした。
「おや。
あはは。」
分からない道の先に不安を思っても、辿り着いてしまえばうなずくしか無いでしょう。
待てども待てども彼が来ないというのに、その胸は、焦りと失望を通り過ぎて、恐ろしいほど穏やかな気持ちに溢れていた。
あぁ、私ではなかったんだな。と、ようやく心の底から分かったからだった。
あの山羊がドラゴンならば、彼女は悪い魔女といったところだろうか。
いいや、それでもなさそうだ。じゃあ何かと言われたら、彼女はやはり、“never more”。
「私、誰かさんの願いでもありますから、その通りのことをしてみようと思ったのですが。
これは」
叶わぬ願いだったのでしょう。そうなのでしょう。
言いかけて、やめた。
言ってしまえば本当になってしまうここで、そんな事を言ってしまえば、それは本当になってしまう気がするからだった。
あぁそれは、たいへん嫌だなぁ。
彼女は自分を否定するほど、愚かでは無いので、言うのをやめたのでした。
さて、あなたの目に、劇場へ送り出したあの子の顔は残っているでしょうか。思い出せるでしょうか。
思い出せたのなら、Xiは今、そんな顔をしている。
そしてやけに機嫌良く立ち上がり、くるりとその場を一回転した。
「いいえ。私が及べなかっただけなのでしょうネ、ごめんなさい。けれどお話ししたことの、半分くらいは本当です。
これは、気を、変えなければいけませんネ。
ですのでこれ、お返しします。
それでは、また。」
最後に両足を揃え、丁寧にお辞儀をしてから。Xiはその場から消えてしまった。影になって消えてしまった。
彼女がいた場所には、あなたの目が落ちていた。
落としたのも嘘、無くしたのも嘘、奪ったのは本当。
白詰草の詰められた、小さな木箱の中にそれは入っていた。
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くしゃみから、彼の呼吸から、なんだか美味しそうな匂いがして、ユピトリの腹の虫が寝返りを打った。
この感じ、この感じ。
「…ヴァイス?」
初めて彼に出会ったとき、抱きしめられたとき。煙の、薄暗い匂いに混じって、3時のチョコレートのような、朝のあたたかいミルクのような香りが、彼女の鼻をくすぐっていた。
けれど彼女は複雑さを熱弁できるソムリエでもないし、あらゆる料理を嗜める舌もない。
だからこれは、本能。どうしようもない、本能。食べ物に抱いてしまう、当たり前の本能。
素直の赴くまま、正直な感性に従って、ユピトリはジズにさえもそんな感情を抱くのでした。
きっと変わらないところ。変えられないところ。
でもダメダメ。人間は、食べ物ではありませんよ。
彼女は幼少期の言いつけをしっかり守って、ちゃんとしようとするのでした。
ところで、堕鬼を一人でやっつけてしまう人間がいるだろうか。素手で立ち向かう吸血鬼がいるだろうか。
まぁ、世界ってのは広いので、そういう人もいるのかも。
と思うのは、全くの世間知らずな持論である。
「ジズ。あのね。私、の。ともだち…に。あなた、似てたの。」
ともだち…と少し濁したのは、本当にともだちになれたのか、ちょっぴり不安になったからだった。
ともだちなら、自分を突き飛ばしてどこかに行ってしまうこともないだろうし。それに。どこかへ行かせてしまうようなこともしないだろうし…
キョキョキョ、と小さく鳴く。ユピトリの心は、また寂しくなってしまいそうで、寂しくなると悲しくなってしまって、悲しくなるとだんだん自分がよく分からなくなってくる。
きっと今、自分が飛べないのも、これが原因だとユピトリは知っていて、なので話し相手が欲しい彼女は、いつもより饒舌に言うのでした。
「ね、ね、あのね。あっちは、海。こっちは、街。そっちは、山。どっちから、探そう。
あ。ここ、ずっと戻る、と。私、の、公園が、あるよ?」
四方を忙しく指差しながら、不親切な道案内が始まる。
傘は、彼が持ったまま。彼女はその横を歩き始めた。
「公園ね、今、水びたし、で。このお花しか、残ってなかった。ので、持ってきたの。おしゃれ?
ね。そうだ。あのね、もしね、見つかったらね。そのね。タルト。見てみたいな。」
「…………」
ジズは一言も発さなかった。その代わり、少女に合わせていた歩幅を気にしなくなった。雨はまだ止まなかった。まるで誰かが泣いている様に、怒っているように、雨は激しさを増していった。
「ボクは」
急に立ち止まって、雨の音に対する声量など気にせず、続けた。
「ボクはキミの家族を殺したんだが、キミの家族は綺麗だった!」
「ボクの悪意を跳ね返すくらいいい者たちだった!」
「ボクは心を打たれて、急にキミの家族を食べたくなった!」
「キミにキミの家族に似た匂いを感じて、懐かしく思っている!」
振り返って、目を細めた。
「まあでも 糞になって流した」
それからけろっとした表情をして、また歩みを再開した。
耳に小指を突っ込んだり、大きなあくびをしたり、鼻水をすすったりして、何事もなかったかのように。
「……別にいいさ」
「食物連鎖に対して、ボクがどう思うか、ってだけの話だ」
この雨は、場をつなぐ雨に違いない。
この世に雨が、水があってよかったねと、観戦者は思うでしょう。
「ボクは旅が好きなんだ」
「これは旅の資金集めでね」
「弟に頼まれて、人を探してる」
「山奥の廃村だ」
はじめユピトリは、彼が何を言っているのかよくわからなかった。誰の話をしているのかよくわからなかった。
彼女には、家族はいない。いないのだから、食べられるはずもない。
じゃあ、ユピトリ以外の別の誰かの話だろうか。
よく分からない。よくわからないから、はじめて分かったことがあった。
ジズ、と、私、は、おんなじ。
「それ、は。ちがう。そんなじゃ。そんなつもりじゃ、ないよ。」
数十歩。居心地の悪い間を置いて、いつもより少しだけ強い声色で、彼に訴えた。
「私、誰かの、家族。食べない。あなた、のこと、美味しそうって、思ったけど、しない。食べる、なんて、しない、よ?」
とは言うが、彼女には、家族はいない。いないのだから、分かるはずもない。
家族なんて、分かるはずもない。
「でも。でも…………。うん…………。」
彼が本当に伝えたかったものは、もっと違ったことかもしれない。実は、とても酷いことだったかもしれない。泣くより痛いことかもしれない。何よりも怖いことかもしれない。
でも、何も起きなかった。何事も無かった。想像しなかった。
それでユピトリは、続きを言うのをやめてしまいました。
食べたい気持ち。もしも、なんだってお好きにどうぞ、なんて手を出されたのなら。
まずはその手を食べて、体を食べて、周りを食べて、食べて食べて、食べ尽くしちゃうかもしれません。
けれどどうして、そんなにも腹が空くのだろう。飢えてしまって仕方がないんだろう。どれだけを尽くしても、満足なんてできやしない。
それでだんだんと、口が重くなってしまったのでした。
「…あ。旅、ね。旅は、私も、好き。」
また数十歩の間を置いて。今度は彼の表情や息遣いを伺いながら、平静を装った。
「向こうの山、村、あったかな。
探してる人、なんていうの?たくさん呼んだら、気づくかな。」