溢れた水が止まらない。
受ける皿がないのだから。去る者たちを引き止められない。魅力がないから。何の施しもせずに、「どうか続くと心地がいい」と思っていたものを放ったらかしていたら、どこかへ行ってしまった。
目の前のそれが言っていることの意味がわからない。言葉を受けて、頭に入れて考えようとしない。できないのだ。自分は無責任でいい加減で、だらしがなく締まりがないので、真意を咀嚼するための筋肉がない。たとえば目の前のそれのやる気を八十としよう。それならば、自分はやる気の概念が抜け落ちている。引っこ抜いたのではなく、どこかへ行ってしまった。
王だとか、なんだとか。どうでもいい。視力だとか、どうでもいい。
ネクロが目の電源を落としたらどうなるのだろうとか、見えなくなったら困るな、ああでも、何に困るんだと。困る理由がない。
見るべきものが何かわからない。抜け落ちた記憶の一部に触れようと、考えようとすると、凄まじい頭痛に襲われる。黒いモヤにのまれて、吐きそうになる。
ロゼは何もしなかった。
出ていったネクロを目で追って、目の前の情緒のないそれを見て、窓の外を見て、シーツを見て、窓の外見て、瞬きをして、情緒のないそれに視線を戻した。
「視力は⋯必要ない見たいものが、ない」
そう呟くと、首にぶら下がっている、何もついていない紐に触れた。
「抜け落ちた過去以外 何も欲しくない」
「…………」
男は先程と同じように、足を進めて、少し先の木を見たり、水溜りを踏んだりした。大きくて重そうな、真黒な上着を羽織って、毛先が上着に当たって時たま跳ねる。目は一度もユピトリを見ず、ずっと先を見ているか、後ろのものたちに注意がいっている。
ユピトリの一言目に、ちら、と彼女を見た。が、また前を見た。
ユピトリの歯切れの悪い二言目には、意外な反応だった。
「次“は“?」
一節だけを掴んで、繰り返した。男はユピトリを視界に捉える。水浅葱色の目と、ようやく目があった。見上げると、男は、口の端を少し上げていた。口が見える。つまり呼吸のためのマスクをしていない。牙装でさえ着用していない。血に飢えていない。枯渇していない。
男は追手を気にせず立ち止まった。立ち止まって、向き合って、ユピトリの肩を掴んで、覗き込むように見下ろした。
「はて どこかで会ったかな」
追手がとうとうすぐそこまでやって来て、うめき声を上げて、二人に襲いかかる。
「今話してるだろッ!!!」
男は怒りを露わにして、大きな声で怒鳴り散らした。ビニール傘をユピトリに預けて、追っ手の頭を鷲掴んで、ぎちぎちと力を込めて粉砕した。
「……人間じゃないのか」
追手の正体が人間でないと気づいて、今度は上着まで預け、次の追手へ走り出した。
さらに追手の後ろにいる追手を、更に奥に続く追手を追いかけ回して、見えなくなったと思えば、びしょ濡れで帰って来た。
考え過ぎて、時々に分からなくなる事もある。
正しいこと、間違ったこと。後戻りのできないところまで来て、別の道を考えて振り返ると、言い知れぬ不安に襲われる。
その孤独は誰がため。愛や恋を唄えば、やはりその孤独は誰がため。
考え過ぎて、分からなくなる時がよくある。
「そのための、私たちですヨ。
そろそろ一つになる頃でしょう。ここは、空と海と地の続く国、“ヴァイス“。
そこに昇った星を辿れば、欲しい物は見つかります。」
それは、どれほど目を閉じようとしても。
あなたの目が、雨の中元気に歩き始めてしまったものですから、盗み聞いたり隠し見たりなんてする必要はないのです。
肝心のその目の前は今、真っ黒なのだけれども。
ユピトリは腕に傘と重たい上着を抱え込んでいるせいで、なんだか怒声と悲鳴が聞こえるけれどもその様子が見えていない。
そのため、彼が自分よりよっぽどすごい力を持っていることを想像したのは、彼が彼女から上着を受け取って、再び羽織った後だった。
「わぁ。」
散らばった死体、散っていく死体。再び開けた曇っている世界には、黒っぽい赤色が足されていて、新しくできた水溜りにはいろんなものが混じっている。もしかしたら、誰かの怨嗟なんかも浮いているかもしれないけれど、そんなもの、お構いなし。彼を見上げて、バシャバシャと蹴散らして、もう一度感嘆の声を漏らした。
「わぁ。」
すごいなぁ。全部一人でやっつけた。すごいなぁ、すごいなぁ。
心を踊らせ、興奮を覚えて、彼女の尾羽は上へ上へと跳ねるために、何度も下に下がる。食うか食われるか。そんな極端な場所ですから、血濡れが勲章になることだってあるのです。
そのご褒美に、彼女は彼へお辞儀をした。それもとびきりいい姿勢で。
「アンシャンテ!私、は、ユピトリ。あなた、は?」
「……ふー」
額に張り付いた髪や、纏わりつく血液を雨で流して、ようやく息を吐いた。水浸しになった衣服の上から湿気を帯びた上着を羽織る。傘を受け取って、自分より、ユピトリに傾けた。
「ジズ」
男は屈まない。ただユピトリを見下ろして、二つの合わせづらい片仮名を並べた。それは先程の怒りを表した表情などハナからなかったかのように、非常に平坦で穏やかであった。穏やか?穏やかと言うよりは、プラスチックのような。言い表しようのない、ぱきっとしたもの。
平坦でぱきっとしたそれが、ユピトリをまっすぐ見据えた。
怒鳴り声ではない、雨と混ざって、地面に吸い込まれそうな声。
「ジズ クラウィス」
「…………、~は、っくしゅん!!」
神妙な雰囲気から一変、寒さに思わずくしゃみが飛び出た。
ジズと名乗る男は鼻水を啜ってから、鼻先を擦った。
「人を探してて、ハハ迷ってるんだ地域の仕組みも分からないし、」
「手伝ってくれるよね」