5章 43


 溢れた水が止まらない。

 受ける皿がないのだから。去る者たちを引き止められない。魅力がないから。何の施しもせずに、「どうか続くと心地がいい」と思っていたものを放ったらかしていたら、どこかへ行ってしまった。


 目の前のそれが言っていることの意味がわからない。言葉を受けて、頭に入れて考えようとしない。できないのだ。自分は無責任でいい加減で、だらしがなく締まりがないので、真意を咀嚼するための筋肉がない。たとえば目の前のそれのやる気を八十としよう。それならば、自分はやる気の概念が抜け落ちている。引っこ抜いたのではなく、どこかへ行ってしまった。


 王だとか、なんだとか。どうでもいい。視力だとか、どうでもいい。

 ネクロが目の電源を落としたらどうなるのだろうとか、見えなくなったら困るな、ああでも、何に困るんだと。困る理由がない。

 見るべきものが何かわからない。抜け落ちた記憶の一部に触れようと、考えようとすると、凄まじい頭痛に襲われる。黒いモヤにのまれて、吐きそうになる。


 ロゼは何もしなかった。

 出ていったネクロを目で追って、目の前の情緒のないそれを見て、窓の外を見て、シーツを見て、窓の外見て、瞬きをして、情緒のないそれに視線を戻した。


「視力は必要ない見たいものが、ない」


 そう呟くと、首にぶら下がっている、何もついていない紐に触れた。


「抜け落ちた過去以外 何も欲しくない」



「…………」


 男は先程と同じように、足を進めて、少し先の木を見たり、水溜りを踏んだりした。大きくて重そうな、真黒な上着を羽織って、毛先が上着に当たって時たま跳ねる。目は一度もユピトリを見ず、ずっと先を見ているか、後ろのものたちに注意がいっている。


 ユピトリの一言目に、ちら、と彼女を見た。が、また前を見た。

 ユピトリの歯切れの悪い二言目には、意外な反応だった。


「次“は“?」


 一節だけを掴んで、繰り返した。男はユピトリを視界に捉える。水浅葱色の目と、ようやく目があった。見上げると、男は、口の端を少し上げていた。口が見える。つまり呼吸のためのマスクをしていない。牙装でさえ着用していない。血に飢えていない。枯渇していない。

 男は追手を気にせず立ち止まった。立ち止まって、向き合って、ユピトリの肩を掴んで、覗き込むように見下ろした。


「はて どこかで会ったかな」


 追手がとうとうすぐそこまでやって来て、うめき声を上げて、二人に襲いかかる。


「今話してるだろッ!!!」


 男は怒りを露わにして、大きな声で怒鳴り散らした。ビニール傘をユピトリに預けて、追っ手の頭を鷲掴んで、ぎちぎちと力を込めて粉砕した。


「……人間じゃないのか」


 追手の正体が人間でないと気づいて、今度は上着まで預け、次の追手へ走り出した。

 さらに追手の後ろにいる追手を、更に奥に続く追手を追いかけ回して、見えなくなったと思えば、びしょ濡れで帰って来た。



 考え過ぎて、時々に分からなくなる事もある。

 正しいこと、間違ったこと。後戻りのできないところまで来て、別の道を考えて振り返ると、言い知れぬ不安に襲われる。

 その孤独は誰がため。愛や恋を唄えば、やはりその孤独は誰がため。

 考え過ぎて、分からなくなる時がよくある。


「そのための、私たちですヨ。

 そろそろ一つになる頃でしょう。ここは、空と海と地の続く国、“ヴァイス“。

 そこに昇った星を辿れば、欲しい物は見つかります。」


 それは、どれほど目を閉じようとしても。

 あなたの目が、雨の中元気に歩き始めてしまったものですから、盗み聞いたり隠し見たりなんてする必要はないのです。


 肝心のその目の前は今、真っ黒なのだけれども。

 ユピトリは腕に傘と重たい上着を抱え込んでいるせいで、なんだか怒声と悲鳴が聞こえるけれどもその様子が見えていない。

 そのため、彼が自分よりよっぽどすごい力を持っていることを想像したのは、彼が彼女から上着を受け取って、再び羽織った後だった。


「わぁ。」


 散らばった死体、散っていく死体。再び開けた曇っている世界には、黒っぽい赤色が足されていて、新しくできた水溜りにはいろんなものが混じっている。もしかしたら、誰かの怨嗟なんかも浮いているかもしれないけれど、そんなもの、お構いなし。彼を見上げて、バシャバシャと蹴散らして、もう一度感嘆の声を漏らした。


「わぁ。」


 すごいなぁ。全部一人でやっつけた。すごいなぁ、すごいなぁ。


 心を踊らせ、興奮を覚えて、彼女の尾羽は上へ上へと跳ねるために、何度も下に下がる。食うか食われるか。そんな極端な場所ですから、血濡れが勲章になることだってあるのです。

 そのご褒美に、彼女は彼へお辞儀をした。それもとびきりいい姿勢で。


「アンシャンテ!私、は、ユピトリ。あなた、は?」



「……ふー」


 額に張り付いた髪や、纏わりつく血液を雨で流して、ようやく息を吐いた。水浸しになった衣服の上から湿気を帯びた上着を羽織る。傘を受け取って、自分より、ユピトリに傾けた。


「ジズ」


 男は屈まない。ただユピトリを見下ろして、二つの合わせづらい片仮名を並べた。それは先程の怒りを表した表情などハナからなかったかのように、非常に平坦で穏やかであった。穏やか?穏やかと言うよりは、プラスチックのような。言い表しようのない、ぱきっとしたもの。


 平坦でぱきっとしたそれが、ユピトリをまっすぐ見据えた。

 怒鳴り声ではない、雨と混ざって、地面に吸い込まれそうな声。


「ジズ クラウィス」


「…………、~は、っくしゅん!!」


 神妙な雰囲気から一変、寒さに思わずくしゃみが飛び出た。

 ジズと名乗る男は鼻水を啜ってから、鼻先を擦った。


「人を探してて、ハハ迷ってるんだ地域の仕組みも分からないし、」


「手伝ってくれるよね」

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