5章 42



 繰り返される不快な音には、痺れを切らして怒鳴り散らして殴りかかるのが一般的だろう。がだれもそうはしなかった。ロゼはとうにやる気を失くしていて、たとえば小さな不快から逃げる精一杯の弱い努力しかできなかった。同じようにネクロもやる気を当然失くしていて、脳が、口が、もうやめろというのだ。初めの印象はきっと当たっている。ハニートーストにケチャップとマヨネーズとゆずポン酢をかけ散らかした訳の分からない不快さ。不快、これ以外に言葉を割くのでさえ勿体ない。


 ここにレノがいたら、この化け物に殴りかかってくれたでしょうか。

 ここにクニハルがいたら、この化け物を殺してくれたでしょうか。


 …………。


 僕は何も話さない。両手を上げない。悲鳴をあげない。

 僕はさいごまで、情緒と知性を持ち合わせた僕でいたい。


 僕は、ロゼには、彼には、人魚が必要だった。人魚のいないロゼは、ひどく情けない。彼はきっと死ぬだろう。目は、切らないであげます。僕はあなた達と茶が飲みたかった。僕はあなたたちのようになりたかった。みんな種族が違っても、仲間が欲しかった。ごめんなさい、お父さん。


僕、帰ります」


 散らした、散っていった仲間を見習って、舞台には登らない。

 僕はいつだって、舞台の外の観客で、映画を見て、つぎの映画を見る。

 そうしてつぎの映画を見て、また見る。感想は言う。けれどもそれは全て同じ感想。


「面白かったですよ」


 ネクロは敵に背中を向けたことなど気にしなかった。部屋を出て、静かに扉を閉めた。


 雨が止まない。止まない雨はないけれど、まだ止まなくてもいいでしょう。


「セーラ!」


 雨の中歩く人影を見つけて、寄ってきた。

 ビニール傘を差して、それをユピトリへ傾けた。それから、肩を抱いた。


「ごめんね待ったかい?」

「いや~途中で靴を濡らしてしまってねー」

「履き替えて、替えの靴下も持ってきたさ」

「だってキミとのデートに濡れた足元なんて縁起悪いじゃないか」


 謎の男は足早になって、それからさっと紙切れを見せてきた。


【 追われてる 合わせてくれ 】


 紙切れを懐に仕舞い、また同じスピードで足を進めた。


「そういや今日あのタルト屋を予約できたんだ」

「あ、ちょうど行きたかった?それは良かった」


 この男が何に追われているのかが謎ならば、後ろをちらりと振り返ってみるといい。

 謎の男を追うものの正体は、この世界には当たり前に湧く、あのロストであった。



 歩いて歩いて、クタクタなのに、せっかく腰を落ち着けられそうな切り株を見つけても、マッチで火をつけて燃やしてしまう。それで、仕方がないからまた歩いて歩いて、疲れたのに、座るのにちょうど良さそうな岩を見つけても、枝で押して川へ落としてしまう。

 そのうち日が暮れて、街灯も月も無い真っ暗な夜の中、落ちている自分の心を頼りに歩き続けて歩き続けて、うんざりするような朝に戻っている。


 彼の言う情緒っていうやつはそんな感じのものだろう。

 誰より強く可愛らしい彼も、物分かりがよく頭のいい彼も、もうここにはいないし呼んでも来ない。ここにはいないし、呼んでも来ない。

 ああ、でも、名前の呼び方が分かるのであれば、今度は此の鳥を呼んでみるといいかもしれない。


「To:ネクロ・ネヴラ

  君が望むのなら、特別なお話しをたくさん用意するのだよ。お伽話も、教科書も、君を忘れることもないのだよ。

  それでは、また。

  From.」


 彼へ宛てられた一通の、青い文字の手紙はきっと、届くことはなかったけれどもね。


 ___


 たとえ彼が彼女に、どれほどに無防備な姿を晒したとしても、そもそも彼女には彼らと敵対する意思は一つもない。

 いいえ、むしろ友好的であって、彼女にとって件の山羊のことも、壊した盗聴器も、冗談混じりの挨拶のつもりだった。

 一生懸命に新聞を読む六歳児のようなものだった。彼女も、早く早く彼らや彼女たちのようになりたくて、一緒に茶を楽しんだりソファに腰をかけたりしたくて、生き急いでいた。


 彼の姿が見えなくなったところで、揺らぎは希望へ向かって一歩足を進める。

 いわゆる部外者が他所へ行ったせいだろうか。一度だけ部屋の明かりが、ハチの羽音のような、ぶぶっ、という音をさせながら、弱くなって元に戻った。


「大丈夫ですヨ。目を落としたとは言いましたが、目が無くなったわけではありません。

 そうですね…まずは思い出して見てください。」


 右手のグローブの紐をほどき脱ぎ、露わになった黒色の手を、ロゼのまだ見える目がある方へ伸ばす。


「“指は5本“。最初に見たあの子の手は、どうなっていましたカ?最後に見たあの子の手は、どうなっていましたカ?私の手は、どうなっていますカ?

 これでもまだ、気づけませんカ?


 まさかそれさえも忘れたとは、分からないとは言わせませんヨ。ああでも、あなたにとって我々というものは…………。

 いえ。」


 言いかけて飛び出そうとした言葉を、理性の足に引っ掛けて喉の奥で転ばせた。愛を失った人に愛を説くものほど不躾で辛抱ならないことも無いだろうし、言ってしまえば本物になる今日この頃なのだから、輪郭を持った自分たちの気持ちに、心が暗闇へ追いやられてしまいそうな気がしたからだった。

 もしそうなってしまったら、寂しくて仕方がないに違いない。手詰まりの惨めさに、屋根裏の悪魔より酷いものになってしまうかもしれない。


 それは、“嫌だなあ“。


 Xiは首を左右に振って闇を払い、自分の芝居の下手さに落胆する前に立ち上がる。そして彼の、ロゼの前でかしこまり、ひざまずいた。


「毒蛇の君、親愛なるエルドレッド・ロゼ。

 あなたが我々の王になることは、預言で決まったことでした。ですので、あなたは私にただひとつ、“目を探してこい“と言えばいいのですヨ。

 私はその他、別の花、never more。

 

 私は、選択の一つです。」


 ____


 もしも堕鬼の数が二、三程度なら、腹ごしらえにあれらを食べてしまうことだってできてしまう。もしもそれ以上なら、生き残る程度のことならできてしまう。もっとそれ以上なら、あとは分からない。

 ところで、あの公園やこの雑林は、街や人の気とは離れた場所にあるというのに。彼はどうやってここまで歩いて来れたのだろう。ユピトリは彼を見上げた。

 自分よりもずっと背の高い彼は、雨雲の加減もあって余計に白く見えてしまって、目元と言いますか鼻立ちがと言いますか、とにかく妙に見覚えのある顔立ちをしていた。


 あなたは誰だっけ。

 思い出したい気持ちもあったけれど、彼の歩幅が思ったよりも大きかったので、彼女の気はすぐに足元に戻ってしまった。

 雨に騒がしい、濁った水溜りを踏んだりしながら歩いていく。ぬかるみに、鳥と男性の足跡が残っていく。

 それを、後をつけるものが踏みにじっていく。その足跡の数は、どうやらあまり多くは無いらしい。


「あの。」


 わずかに息の上がった声が出る。


「私、次は、あなた、を、守れる、よ。…………うん?」


 言葉の違和感に、ユピトリの胸はちくりと痛んだ。

 次、次…。言葉の違和感というよりは、思考の違和感かもしれない。

 次は、だなんてまるでそんな。前もあったみたいじゃない。


 あれ?なんだか変だ。

 変だけれど、考えるのは後でもできるはずだからと、もう一度ユピトリは、今度は覗き込むように彼を見上げた。得意げに、彼を見上げた。


「…ううん。

 あのね!私、は、ちょっぴり、すごい。」






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