5章 41


 鉄板に打ち続ける雨の音が騒がしい。氾濫を起こしそうな川の音が騒がしい。暗い雲の奥で轟く雷が騒がしい。地下街に次々と生まれる赤子の声が騒がしい。

 たとえば紅茶を嗜みながら読書をする婦人が突然変異に見舞われて、見るに耐えない化け物にな

 ったら。そのまま紅茶を嗜むのだろうかとか、読者をするのだろうかとか、読んでいた内容を覚えているのだろうかとか、痛覚は残っているのだろうかとか、嗅覚はあるのだろうかとか、いつまで経っても頭上の雲が消えやしない。


 鬼と吸血鬼の半妖"ニア"は、数日前に地下街で起こした大規模実験を、遠く離れた廃工場のてっぺんで眺めていた。


 地下街とは、生き残りの人間や力の弱い吸血鬼が化け物から身を隠すためにコミュニティを合併させ最終的に辿り着いた場所だった。地上には崩壊した関所や商業施設など、もう人の影もなかった。あるのは餌を求めてうろつく化け物共、枯れた死体、廃車。豪雨や暴風を当然気にする様子もなく、今日も餌を求めて歩き回る。

 そこで大規模実験の成果が、地下街の入り口から飛び出した。地上に元いた化け物に襲いかかり、何でもかんでも破壊しようと試みて、走り回る。果たしてあれに自我はあるのだろうか。


 錬金術師は言った。「偶然はない。誰かが何かを起こさなければ、何も起こらない」と。今のこの惨状も、オレ達が実験に加担して行動に移していなければ起こっていない。この雷雨も暴風も、誰か起こそう思ったから、起こったのだと。


⋯⋯⋯⋯ふう」


 ニアは息を吐いて、透明の雨合羽のフードを深く被った。濡れた鉄板を蹴って、いくつもの天井を

 飛び移って。化け物で溢れかえる旧市街地を後にした。



 それから、とっても長い時を待った。

 その間も光はさらさらと落ち続けるし、星は暗くなっていく。どこかでは誰も知らない物語

 が始まっていく。地上ではアリのようにいきものがうごめいている。


 あまりにも長い時が流れたのに、今は何一つ代わりようがないのに、なのに混沌の、星の数

 は増えていく。砂時計の砂粒の数は変わらないのに、満杯になってしまって、ガラスが割れ

 てしまう。


『...わかりました。』


 果たして何をだろう。いいや何も分かっちゃいない。

 あなたたちが、目を大切にするように。血を大切にするように。なのに命を粗末にするよう

 に。

 わたしたちが、命を大切にするように。血を大切にするように。なのに目を粗末にするよう

 に。

 形がどこか似ているだけで…………分かっちゃいない。


 ため息を一つ。Xiはようやく地上へ、時計の針が全く進んでいない現実へ、彼と共に降りる

 ことにした。

 と、その前に、顔色一つ変えずに彼の首を掴んで持ち上げ、掲げる。宙ぶらりんになった足

 に、人間失格の形が出来上がる。

 彼女の慈しみと狩りは、まだ終わってはいなかった。


『あなたの、欲しいものです。』

「他人に期待するな」


 副音声の混じった声の後。

 きっと彼は、瞬きをできなかったでしょう。は彼の、"ロゼ"の方の目を摘み取ってしまっ

 た。


 けれど大丈夫。彼女の、nevermoreのおまじないのおかげで、血は出ないし痛くもないし

 苦しくもないはず。

 次に目を開けると、あなたはきちんと自室のベッドに横たわっていて、家の中には機械の彼

 が多分いて、部屋の小さ椅子にはXiが、心配そうに座っているでしょう。


「随分うなされていましたが、悪い夢でも見ました力。

 気晴らしに、ユピトリでも殺しません力?」



 ベッドで「眠ろうとする」とどうしても寝付けなくて、ソファで寝落ちたり、研究部屋の硬い椅子で寝落ちることがほとんどだった。飯や珈琲の匂いで起きることなど勿論なかった。

 妙にベッドが広かった。家主が使わないべッドが大きく感じた。窓から差す陽が鬱陶しいと感じ


 ロゼは目を覚ましたが、視界が妙だった。擦っても擦っても、右目が見えない。普段前髪で隠し

 ている左目を使おうと、前髪をかき上げる。そこには悪夢がいた。ロゼは固まって、目を泳がせ

 て、急いでベッドから降りて、距離をとった。


「失せろ⋯⋯情緒のない化け物が⋯⋯!」


 厄介ごとに巻き込まれたくない。厄介ごとに巻き込まれるなら、それ相応の、それ以上の見返りが必要だ。


 ロゼが言い放った直後、部屋の扉が開いた。


「ごきげんようロゼ。逃げた先には僕がいたのに。

 今晩は、成り損ないの虫ケラのスープにでもしましょうか」


 そう言って、ネクロは部外者をみて、笑みを作らなかった。哀れみを持った目をして、それから蔑

 んで。これならいっそ魚の方がまだマシだったと思いながら、息を吐いた。



 そんなつまらなさそうな今を、ドキドキとゾクゾクで彩ってしまいたい。

 同じ彩で輪郭のぼやけた今を、喜びと愉悦で塗り替えてしまいたい。


 彼らの望む、ただひとつの言葉があるのを、彼女は知っている。というのは半分嘘だが半分は本当で、今、全てを台無しにできる結末を吐精してしまいたかった。

 けどもしも、もしも本当に台無しになってしまったらどうしよう。全てが終わってしまったらどうしよう。


 そんなのきっと、おかしくておかしくて、ほんとに本当にどうにもできないでしょう。

 不確定な先に感じる不安に、誰も彼もが塗りつぶされて、みんながみんな、同じ色。

 等しく均等で、傾きのない安寧がもたらされた平たい世界は、つまらないに違いない。


 甚だしい妄想を飲み込み、Xiはネクロの代わりに微笑んだ。


「ねぇあなた。彼に、言ってやってくれませんカ。私、ヤギよりは恐ろしくないですし、どこかの誰かさんみたいな趣味はしていませんヨ。」


 と、ロゼを見つめながら、白い装いの袖から盗聴器を取り出して、床へ投げ捨てた。

 叩き割られたヒビの間から基盤を見せるそれが、もう二度と動かないものであることは一目瞭然でしょう。

 こんなガラクタを、彼女は一体どこで拾ったのだろう。その前に、こんなガラクタを、一体誰が仕込んだのでしょう。

 Xiは真っ直ぐにロゼを見ていた。


「ネ。恋は盲目と言いますし、せっかくですから鳥の気持ちになってごらんなさい。いっそ鳥になってしまいますカ?ああ、それはいい考えかもしれませんネ…ふ、あはは。」


 想像をして思わず吹き出して、彼女は肩を震わせる。


「失礼、おかしくて、つい。

 さて冗談はさておいて、あなたの片方の目の行方ですが、どこかに落としてきました。」


 と、何の悪びれる様子もなく小刻みに笑い続けていた。




 その傍ら、同じ頃。


 いつの間にか眠っていたユピトリは起き上がり、呆けていた。

 疲れ果てた体も、揉みくちゃの心も、雨の音が響くくらいには落ち着いたようで、その顔は妙に穏やかだった。


 まだ止まないのかな、と外に目をやると、茶色い波がすぐそこにまで押しかけているじゃあないか。

 いよいよ砂場の水が溢れたようで、ユピトリはギョッとして、慌ててテントの奥の箱を抱えた。


 それには丸いビー玉やレンズの取れたメガネ、干からびたトカゲの尻尾やベルトの取れた腕時計が入っていて、昔お菓子が詰まっていたブリキの箱は今、彼女の宝物が詰まっている。けれど詰めすぎて蓋の閉まらないそれは、雨漏りのせいで水浸しになってしまっていて、彼女からは落胆の悲鳴が漏れた。


 困った彼女は、その場で箱をひっくり返してしまったものだから、ガラクタと一緒に水が床中に散らばってしまって、波に襲われるまでもなく彼女の住まいは浸水してしまった。


「うーん。」


 手の付けようが無いと言いますか、片付ける方法が分からないと言いますか。中も外も変わらなくなった現状をしばらく眺めていると、ガラクタに紛れた一輪の小さな白い花が彼女の目にとまる。

 一体いつ拾ったものか覚えていないが、まだ枯れていないその花だけでも取っておこうと、ユピトリは自分の髪に挿して飾った。


 それで、なんだかお腹が空いたような気もしてきた彼女は、牙装のフードを深く被り、食べ物を探しに公園を出た。


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