静かな幸せを祈って。
あなたのその、秘密の音が、思考が、感情が絶えて、無駄だと。もったいないと。
そうして気持ちが冷めてしまったと。
どうせ、機械人形の祈りなんて、かみさまは聞き届けてはくれませんけれど。遠く遠くに終わった願いなんて、今さら、図書館のどこかにしまわれていた方がきっと様になりますけど。
ああ、でも、その時にでさえも熱は生まれてしまうものですから。皮肉なことに、せっかく生まれたものは細々と長々と続くもので、陳腐に言えば人生、悪く言えば歴史。
水が氷になる間に生まれた熱の気のように、あなたはあなたが思っている以上に閃光しているものですから、人がいなければ生きていけないのなら、なおさら。
彼女は、彼の心臓の輝きに確信をして、綺麗な歯を見せて喜んだ。
彼女とあなたは心の性感帯が似ているのだから、それもそうだろう。
とは言ったものの、要はあなたの心が彼女に向いた、たったそれだけに嬉しい気持ちになっているだけであって。
というのも彼女は白痴といいますか、阿呆といいますか。それがどんな方向を向いているか到底分からないし、もっとも、行き着く先が「私」ならなんだっていいのでした。
それじゃあ、結局あなたの気持ちは、あなたのいうとおりになってしまうんだろう。それで、また彼女はその様子に喜ぶのだろうよ。その永遠の円に、パラダイスと名前をつけてしまうのでしょう。
郵便屋さんはコンコンと、ひづめで床をノックする。
「ふ、ははは。ねぇもしかしてさ、君さぁ。私のこと羊みたいって思ってるでしょ。やだなぁ、羊なんてどうせ、草食べてるだけで可愛いって言われるんだもの。
…え、何。まさか本当に思ってるの?私羊はやだなんだけども。」
突然怒り始めた彼女は、勝手な勘違いでツノを突き出した。
稲光が謀って一帯を照らすのだけど、彼へそれが振られたのが、窓の外からはっきりと見えた。
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死人が目覚めてする事はそれですか。
彼女はため息を乾いた笑いで誤魔化した。失望した、というのもあるが、悪態をつこうと思えば思うほど、自分の姿が浮き彫りになってくるからだ。
苛立ちを覚えながら彼女は試しに彼の名前を…雪の名を、黒の名を口にする。一文字めは閉じた唇にミルクを含ませるように、残りの文字は流れに任せて。しかし彼は来ない。来ないし、何かが起きる気配も全くない。
どうせ鳥と人では口が違うからとか、おまじないの音が違うからとか、そんな理由でしょうけれど、どうも彼女はそれに気づいていない。
『なんなのでしょうネ。私に何をさせたいんでしょう。
おや、うふふ。』
求めるものには与えられると言いますが、あながち間違いではないのでしょう。
左手の薬指と、彼に触れられた手に彼女は長いため息をつく。例え難い幸福に心が満ちたからだった。
傍でユピトリはすっかり落ち込んでしまっていて、雨に体が冷えたからでしょうか。
なかなか止まないからでしょうか。気の利く傘がないからでしょうか。どうやら彼と命を繋いだからでした。
以前のように。ツァラにそうした時のように、毒に嬲られるような事はないけれど。
悲しみに体を震わせて、生まれた熱が上手に出ていかないような、涙をいっぱいに吸い込んで、重たくなったまぶたのような。
そんな風の心地になってしまっていて、それでようやく彼に何かがあったことに気づいた。
こんな時、誰なら、彼なら、ロゼならなんと声をかけるのだろう。ユピトリは考えてみるが、言葉が見つからない。いや、探したことすらなかったんだ、大体の人はみんな、悲しみの前にどこかへ行ってしまうものですから。
「…。」
それも。これも。いやだなぁ。
ユピトリは彼が雨風にこれ以上冷えないようにと、翼を広げたのですが。どうしてでしょう、彼女の背中から、翼が伸びる事はありませんでした。
もし、冷蔵庫が喋ったらどうしますか?もし、扉が喋ったらどうしますか?はい。とっても気持ち悪いと思います。いいや、選択肢はふたつある。
一つは何も言わずに、普段通りを装うこと。つは素直に思ったことをいうこと。これに答えはきっとなくて、自分自身が選ぶんだ。時は巻き戻せないし、発言は取り消せない、後付けはすべて言い訳になる。ドクターは君に、君の道を、選択肢を、君自身で選んで欲しい。それが世間的に間違っていたとしても、ネズミ一匹はついてくるかもしれない。たとえばドクターとか、君の父親とか。僕が死んでも、君には僕がついてる。君が死んでも、僕には君がついてる。こういう無条件協定を、愛という。
「____、⋯⋯⋯⋯情緒のないばけものが。」
ネクロはわざとらしいため息をつくこともなく、ただそこにあった感情を吐いた。雷撃をもろに受けて水浸しの床に仰向けになっている。電源はすぐに持ち直して、再起動がかかった。
「⋯僕は僕が生きるためなら、なんだってする」
「得体の知れない敵の拠点に考えなく転がり込むような脳では、思いつかないでしょう」
ネクロは立ち上がって、片方の眉をあげて、山羊を睨みつけた。すぐさま彼の足元に数十匹のネズミが現れ、なんだか拠点の外はカラスがやかましい。カァカァ、ちゅうちゅうとやかましい中、この声が聞こえるでしょうか。
「ねえ? 鳥頭。」
暗い水浸しの部屋。山羊とネクロの間に、大柄な化け物がどこからか現れて、山羊の頬を片手で鷲掴みにした。真っ暗なため、ほんとうに真っ黒な化け物にしか見えないだろう。
『お帰り下さい』
それは、もやのかかった「声」だった。たしかに声であった。その声の後すぐに、化け物は山羊を掴んだまま、扉を開けて、拠点の外へ投げ捨てた。
ロゼは下を向いた。心情も表情もうかがえない。雨は水は全てを流して、海になる。この男の抜けでた何かもいつか流れて、海へ帰る。
いまはすべてが痒い。鳥の目も、雨も風も、何が何で、どうなのかわからない。口から喉から何かが出てこない。他人に構う余裕など、ない。この男は蘇りが嫌い。それでも全身がむず痒かった。
重い鐘があたまのなかで鳴っている。潮時だ、潮時だ。風情がほしい、情緒がほしい。子供に興味がない。身が震えない。震えたたない。血液が駆け巡らない。暴きたいと思わない。情緒がない。意図がない。思いつきで稚拙。手段がない。
「貴様は、ない」
ロゼは隠し持っていたナイフを出して、自分の喉を掻っ切った。口から血を噴き出して、笑みも作らぬまま地面に倒れて霧散した。奥に留まっていたカラスと目があって、溺れそうになったが、そんな感覚はすぐに意識と共に消え去った。