全てを遮断して、永遠に味のわからない色のついた水を口に含んだ。
ごくん。雨は泣いていて、地面はぐずぐずになって、川は流れて、わずかな草木は水分を得て、僕は人間の真似事をして、訪問を無視して、裸足でテーブルの上に立って、指揮者になる。
僕の記憶がどこまで更新、移行されているかは未だに非公開で、僕以外の誰もしらない。ない楽譜に何が見えるかなんて、教えない。どこまで描いてどこまで来たか、教えない。
羽ばたく鳥も、溺れる魚も、僕はみんなだいきらい。みんなが僕をきらい。空を覆って、海をひっくり返して、電源を入れて。羽をもいで、鱗を抉って、腕をなくして、脚をなくしてしまえ。人生で、なくしてしまえ。とおいどこかで、なくなってしまえ。
僕と関わった人はみんな死んでしまったけれど、けれど何でしょう。何だとおもいますか?
ネクロはテーブルの上で目を閉じて指揮をとり、軽やかにステップを踏んだ。
頭のなかでクラシックを流して、ひとしきりケラケラ笑ってから、ソファへ勢いよく飛び込んだ。
うふふ、あはは。んふふ。たのしい。たのしい。たのしい。ああたのしい!たのしい!たのしくってありゃしない!おかしくって仕方がない!
一曲の終わりが近づく頃、たのしさは最高潮に達していた。ソファに寝っ転がって、クッションを抱えてにやにや笑っている。ぜんぶに音が見える。天井も、電球も。あの本も、雑誌も、空のビンも、注射器も、封の開いた袋も。全部がわらってる。はあ、はあ。だれからも愛されないって、だれも愛さなくていいってこと。ああたのしい。だれからも信用されていないって、だれも信用しなくていいってこと。あはは、うふふ。
味のからない色のない水を床にこぼして、クッションの中の羽も床に散らせて。ソファから起き上がって、足の裏を濡らした。しばらく立ち尽くして、何かを呟いて、また笑っている。その左手には、アイスピックが握られていた。ネクロは来訪者に聞かせるつもりのない声で、ゆっくり返事を返した。
「どうぞ開いていますよ」
雨雲が力いっぱい太鼓を叩くと、一瞬だけ、パッと世界が怪しく光る。どうやら雷がすぐ側に落ちたようで、空気は驚いて震えているし、家の中の灯りもおののいて消えてしまった。
一瞬のあいだに。その後に取り残された妙な静かさに、くらい闇が広がる。きっとカンテラでもなければ、部屋の中だというのに迷子になってしまうでしょう。それに、彼が部屋をめちゃくちゃにしてしまったのだから、ますます洞穴のようなところになってしまっただろう。
彼の目は、闇を見れるのだろうか。左手の殺意や、そうじゃない気持ちを、誰に正しく向けられるだろうか。…と感傷しているうちに、彼の背中には突然水がかけられる。
「はぁ、くしゃみが出ちゃいそう。え?出ちゃった。
あのねぇ今日ねぇ、急に嵐が来たでしょう?まぁ私、雨は嫌いじゃないけどもさぁ。でもでも困っちゃうよね。見てよこれぇ。すっごく水びたし!」
彼女は、また体を大きく震わせてびちゃびちゃと、水とつよい獣の匂いを撒き散らした。床に散っている羽は、彼女の雨水を吸ってべったりとへばりついてしまったし、きっとここは今、誰かの惨状なんかより酷い現場になっている。
「あ、そうだ。さっき雷落ちたでしょう?びっくりして窓割っちゃったんだけど、ずっと待ってたのに、君ったら一人でパーティしてたみたいだからさ。」
だからおあいこね。と言いながら、彼女はカバンから手紙をいくつか取り出した。
宛先は、ロゼのものがたくさん。ツァラのものがいくつか。ネクロ宛のものも一通あったのだけれど。
そんなこと、おかまいなし。
彼女は宛先も中身も見る事なく、綺麗にぜんぶ食べてしまった。
『ふふ。見てクニハル。綺麗な花』
『持って帰るか?』
『いいえ。摘んでしまっては可哀想⋯』
『そう』
『ごきげんよう、レノ。いい天気ですから、散歩でもしませんか』
『⋯⋯人間みたいなこと言うな⋯⋯⋯』
『ロゼ。この間、少し雨に濡れてしまって』
『私は医者ではないんだがな』
『まあ。』
.........
ネクロは暗闇で立ち尽くして、何もしなかった。ついこの前の、古い風の匂いを思い出して、それから。暗闇の中で山羊を視界に捉えた。雷と雨と風と目の前が騒がしい。萎えて止まってしまったクラシックは、しばらく流れないだろう。
ネクロは本当に、何もしなかった。過去を乞うことも、握ったままのアイスピックで目の前の山羊を刺し殺すことも。主人がいなくなった拠点で、ただ立ち尽くして、山羊を見ていた。どこか哀れんだような目に何を感じるかなんて、きっとわざとシャットアウトして、知ろうとしない。
きっとナレーションはこう言う。思考が無駄。あなたに割く時間や脳、時、空気が無駄。何かを感じても、何も発信しない。その何かはきっと不快感に間違いなくとも、それでもこのネクロは一言も話さない。
死んだことになって、飛んだことになって、亡き者になった自分の現在を知っているのは、この拠点の二人だけである。これは敬意である。ああどうにかして、僕たち三人で、お茶でも飲めたらよかったのに。
劇場。惨状のあとの静寂。カーテンコールの後の、観客のいなくなった静けさ。食べ終えられて、添えられたパセリだけが残された白い皿。ベリーソースが少し残っている。
足裏をベリーソースいっぱいにして、廃棄物の、余り物の前に現れた。
鳥に齧られて、夢の中で死んで、現実で貪られた残り物。おいしい血の、世界を変える血の泉。
世界中に散りばめられた化け物の種の親。ヴァイス・クラウィス。先ほどまで夢の中でポップコーンを齧っていたせいか、口の周りを指で拭っている。
彼はきっと異常気象で、すぐさま気象予報士に通知がいくだろう。そんなことをお構いなしに、ヴァイスは軽い体を、手のひらを開いたり閉じたり、ぐっと伸びてみたりして、最後にほんのすこしだけ頬を緩ませた。
どういうわけか舞い戻った異常者は、廃棄物の彼女の前まで寄って、手をそっと掴んで、握りしめて、頬擦りして、大人しくなって目を閉じた。
他人が心地いい。初めて知った、出会ったものには情がわくというが、そうかもしれない。どこかの鳥だって、きっとそう。おれは言葉を知りませんので、そういうことにしておきましょう。
冷たい手が、彼女の指の一本一本を確かめて、手に馴染ませた。何かをすり込んで、何かを流し込んだ。それからヴァイスは彼女を見上げて、他に聞こえないように声を出した。
「ヴァイス。呼べば、出ます」
そう言って、ヴァイスは彼女の前から姿を消した。
こちらのナレーションはきっとこう言うだろう。『天の仕返し』だと。
彼の消えた劇場には、もはや何もない。灰になって消えた者たちの遺品と、いや、それだけ。