おおくの知識を仕入れてきたつもりでした。おおくの裏側に関わったつもりでいました。おおくの愛を知ってきたつもりでした。多くの刺激的な道を歩いてきたつもりでした。けっして虚構でなく、けっして走ってきたわけではないと、思い込んでいました。
常に心は湿っていて、渇いていてそれでもなんだか満たされなくて、何かに溺れたくてずっと彷徨ってうろうろしていました。時は忙しなく過ぎていって欲しいものでした。
愛の価値を酒で下してひけらかす相手もおらず、ああでも、自分は愛には恵まれているほうなんだなと、薄々自覚していました。してしまいました。ああ罰が、罰が。罰が。罰がくだったんでしょう。
本棚にあったはずの本がずっと見つからない。なんの本だったか、順を探っても、貸し出し表をさがしてもみつからない。みつからない。それがなんの本か、いつのものか、確かにあった形跡があるのに、触れない。分からない。
神様、どうか私を殺してください。自分はこんなにも恵まれて、嫌われて、愛されて生きて死んできた。病気でも事故でもかまいません。ああ、死ぬんだなという実感が欲しいのです。
いまは、愉しくてならない。自分の物言いが、ありかたが、ひとを狂わせる確証が欲しいのです。
ひとをくるわせて、思われて死にたいのです。
こいつは頭がおかしかった、で私のうわさを流して欲しいのです。こいつは頭のネジがもともと嵌りもしないで、それでも世間よりはじゅうぶんに愛されて死んだと。このめちゃくちゃな前文もなにもかも、おかしくてたまらないのです。はあ、おかしい。おかしい。
「ハハ⋯」
ロゼは乾いた笑いをこぼして、雨で濡れたユピトリの髪を耳にかけ、がわのつめたい頬に何度も触れて、さいごに頭を押さえて乱暴に何度も何度も唇を貪った。
ユピトリを退かせて抜け出たロゼは、濡れて重くなった上着を脱いで横腹に抱え、少し離れて向こうを向いて立ち上がった。顔に張りついた髪をかきあげて、振り返った。露わになった左目は、よく見た彼の、ネクロのものだった。
「⋯⋯ク、ックックアッハッハ!!!!」
はあ。はあ、はあ。おかしい。おかしくってたまらない。ああ、ああああ。体は冷えているのに、たのしくってたまらない。全てに追われていて、ああ忙しない。せわしない!ああでも、少しだけ、私を操っている私が、冷めている気分になる。
「 idiot ユピトリ 」
「私は貴様のセーブポイントではない」
「愛が欲しいのなら、貴様の物差しを捨てろ」
「ああありがとう 好いてくれて どうもありがとう それで?」
「私は好きが分からない」
「ああいや、知りたくない」
「愛に悩んで愛に生きて、愛に死ぬ」
ロゼは首を傾げて頭をとんとんと小突いた。
「⋯⋯なにかが引っかかっていて、思い出せない」
「思い出そうとすると、頭が痛くなる」
「中身がない」
「最期のピースが嵌まらない」
「どこにもない」
尻すぼみになる声が聞こえなくなった頃、ロゼはとうとう涙を流してしまった。
「帰してくれ」
変化とは。それは、終わり。そして、始まり。
キスというものを、実のところ彼女はしたことがありませんでした。いいえ、する必要がなかったのですから、というのも、精一杯のあいじょうは鼻先を合わせるだけで十分で、唇を重ねることがユピトリにとっての愛ではなかったからでした。
時間は真っ直ぐに伸びているのに、なかなかどうして。彼と彼女のあおの色が似合わない。
やはり…。いいえ、その後に続く言葉はあまりにも残酷なものですから、輝きがくろく塗りつぶされるほどにいじわるなものですから、表してしまったなら、おしまいでしょう。
乱暴にされて痛む口元を押さえて、ユピトリは様子のおかしい彼を見つめる。
雨の、水の加減のせいだからでしょうか。涙が止まらないからでしょうか。それとも怖かったからでしょうか。絵の具を溶かしたような目をさせて、ユピトリは一つずつ考えながら話す。
「…dear、ロゼ。」
あなたっていう人は、本当にズルい大人。
そういわれたって仕方がないでしょう。とても昔、本当にとても昔。一つだった言葉は散り散りにされてしまって、鳥と人は言葉を交わせないものだったのに。
「それは、できないよ。」
あなたが、彼女に言葉を教えてしまったものですから。彼女に名前をつけてしまったのですから。はじめましての物語が、生まれてしまった。
どれだけあなたが愛され方を解らなくたって、彼女が馬鹿にされたって。物語は、終わらない。
時が止まることがないのです。
戻ることもないのです。
いつまでも“はじめまして“が繰り返されるのです。
いつまでも。いつまでも。
「あのね。いじわる、では、ないの。翼、が。濡れて、は、難しいし。
それに、あの。あの。えっと。ええと。ごめんなさい。ほんとうは、帰りたく、ない。帰したくないの、だって。…だって。」
とユピトリも彼と同様に、尻すぼみになって言葉をやめてしまった。
仕方がなかった。この気持ちの名前を、彼女は分からないのですから。
言いたいことが言えない。言葉にできない事を無理しなくたって、怒る者はいないだろうに。それが、彼女の中ではとても気持ちが悪いものだったのでしょう。
それならと、代わりにユピトリは歩み寄って、背伸びをして。ロゼの頬を両手で包んだ。
「…うん。あのね。」
彼は、狡猾な毒蛇のようで、さざ波の、一帯の闇の中でカンテラの炎を見つめているような目をしていたけれど。今の彼はそんなことはなかった。
「好き、は、私。」
よっぽど困ることはなかったでしょうその顔は、呆れるほど困り果てているし。何より、紫の面影が見当たらない。
「愛、は、ツァラに。
ね、ロゼ。私、の、目は。あなたのより、それと、ネクロのよりも。ずっといい。ので、私。ロゼの、目になるよ。」
だから泣かないで、と。話す胸を柔らかく光らせ、ユピトリは彼と自分の命を結ぶのでした。