4章 35


 俯いていたのなら、少し首を上げるだけで向こうに白ゴマをひとふりしたような鳥の影が見えるだろう。ウミネコたちが海の上で遊んでいる。七月の風と戯れて遊んでいる。


 ユピトリは青い未練でここ、ロゼらの住うところまで地を歩いてやってきた。

 劇場を飛び出した時よりもその表情はどことなく険しいが、歩き疲れたのだろうか。別に、彼女には翼があるのだから、空を渡ったってかまわなかっただろうに。


 きっと彼女の決意が風に飛ばされてしまいそうなものだったから、地を歩いてきたのだろう。本当にこれがいいのだろうか。とか、本当にこうするべきなのかな。とか。砂埃まじりの風の中、あの傾いた矢印の看板へ従いながら。


 スッ、と一つ、息を吸う。前にここを訪れた時と同じように彼女は窓の前に立って、ガラスをノックしようと手を持ち上げるのだけど。


「…あ。」


 どうしよう。

 薄いカーテンの向こう、部屋の中にネクロを見つけて手が止まる。


 彼女のことが嫌いな彼。ユピトリのことが嫌いな彼。ユピトリが嫌いな、ネクロ。

 もしかしたら彼の記録に多少のラグがあって、彼女に言い放った言葉が履歴に残っていないかもしれないけれど、そんな事彼女に知ったこっちゃない。


 せっかくさよならを言ったのに、平然とここにいる彼に抱いた苛立ちをぶつけたっていい。彼の真似をして「私もお前が嫌いだよ」と言ってみてもいい。いや、言ってみた。空想の中で。

 夢の中では誰だって自分が主役なのだから、いくらでも他人を傷つけることができるでしょう。それに罪悪感を覚える必要もないでしょう。

 もしもそれにどこか後ろめたさを感じてしまうなら、それは自分に嘘をついた時だろうか。


 彼、私のこと。嫌いなんだよね。

 けどユピトリも彼のことを嫌いかといえば、そうでもない。


 …はたして。この気持ちは一体なんていう名前なのだろうか。

 緩やかな不穏を含んだ海の生ぬるい風が吹く。気まずさから、気がつけば彼女の足は浜辺へ向かっていた。

 点々と続くその足跡は、やはりまだ迷っていた。


 そうしているうちに向こうのウミネコたちはどこかへ行ってしまっていて、代わりに雲が行き先を逆らい始めていた。


 海辺の天気は少女の気持ちにも負けず不安定で、気まぐれで。それらはたちまちに集い育ち、くすみながら大きな雨雲になって唸り始める。ぽつぽつと、そしてざあざあと雨が降る。あたりがぼやけて見えなくなってしまえば、まるでここが水の底になってしまったようだった。


 その中でユピトリは一つ人影を見つけるのだけど、それが“エルドレッド・ロゼ“であると気づくや否やユピトリは走り出す。そして「きて。」とだけ言い残し、あろうことか大きな鳥になった彼女は前脚で彼を捕まえて…雨で表情が見えないのを、声が聞こえないのをいい事に、彼がなんと言っていようとしっかり抱きしめて、悪天候の中を飛んでいってしまった。


 彼女が、どうしてこんなにもよく分からないことをしているのか全く分からない。彼女はあまりにも嘘が下手くそだからきっと、けれどやっぱり、多分本当に、彼のことが好きなんだろう。そうでなければ、ロゼを捕まえた彼女の顔がこんなにも苦しそうなはずがなかった。



 一方で、もしもネクロがいなければユピトリが訪れていたであろう家には、一頭の迷子がやってきていた。彼女は5回玄関をノックして、勝手に郵便受けを覗いて、その後もう一度5回玄関の扉を叩いて、大きな声で挨拶をする。


「こんにちは!」


 ____



 大切に、寂しそうに、すがるように。

 彼女の胸に頭を押し付けられているのなら、耳を塞いでいても聞こえてほしい。もしも耳が聞こえないのなら感じてほしい。逸るものが、小さな心臓がここにあって、一生懸命にもがいて生きている。


 そんな、蟻の足音のようなもの。けれど千の殺戮と一の晩餐があるなら、ここには千の風と一の願いがあります。

 そんな、蝶の羽音のようなもの。鳥の気持ちは分からなくていい。けれど、分からないままにしないで。


 ___


 雨は、まだ止まず。それは海からそう近くないところ、地図にも無いだろう公園でも同じで、雨だけは凌げそうな粗末なテントの手前にやがて彼女は降り立つ。降り立つのだけど、未だ彼を手放したくない彼女はそのまま彼に覆い被さり、頬を、額を、耳のあたりを彼に何度も押し付けた。羽毛が抜けたって構わず押し付けた。


「あのね。」


 羽毛から、髪の毛へ。それでもやめない彼女の肌は、擦れて赤みを帯びていく。


「…。

 やっぱり、やっぱり。やっぱりいやだったんだ。 私、私。ひとりぼっちはいやで。注射、より、きらい。ので、“さよなら“なんて、私の気持ち、と。そんなの、そんなの、違うんだ。」


 虚栄に被せていた決意の皮が飛ばされてしまえば、残されたものは情けないものだった。

 雨にも負けず。彼の目をはばかる事もせず、大声で泣く彼女は。ちょっぴり、へたくそ。


「ねぇ。ねぇ、あのね。

 知ってるんだ。知ってる、はじめから。私、は、ユピトリで、さいしょから、ひとり。

 あのね。だから私。あなたの、ロゼの、はじめましてが、ずっと、ずっと。

 ……ずっと。それは、毒のよう。ねぇ、なのにあなたに、噛みつけない。


 だって。私はあなたが好きなんだ。」


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