出先で、カラメルのように蕩けてくれないかしら。彼女。
煙たい影を得て、客席に座っていたXiは彼らのやり取りを見ながら、一思いに薬指を食いちぎった。真っ黒で、ひどい気持ちの血は石鹸水のようで、ああ確かにこれでは飴玉も求めたくもなるだろうよ。
彼と彼女のどうしようもない浅はかさを思い出して、笑いたくなるのを堪えてそれを飲み込み、けれど本当に浅はかなのは誰なのだろうと考えながら、Xiは次にくる不快感に顔を引き攣らせた。
こうして望んで得る罪悪の気持ちに、神の国はますます遠のいていくのだろう。
いくら集積地とはいえ、もとを辿れば彼女は彼女。春に萌えた芽に逸見の血は何よりも毒で、愚かなもので。未だ完成に至らない彼女のこころとからだをつなぎ合わせるには丁度いい糊でもあって。
それはいっときの免罪符にはなるだろうか。
ここに神なんていない事を正当化できるだろうか。
私は救われるのだろうか。
ともあれ、彼女が他人の不幸を感じなくなるには至れずとも面白さを感じるようになった頃。うふふ。と顔のない彼よりもよっぽど分かりやすく鳴き、舞台へと歩みを進め
『これ、もう必要ないのでお返しします、ネ。』
と、鳥にしかわからない言葉で、さながらエンゲージリングを送るように転がっている彼へ手を差し出した。
舞台の上で仰向けに寝っ転がっていたら、知らない観客が二人。
臭い。いやな匂いがする。臭い臭い。
逸見は身体を起こして、頭を掻いて、目を擦った。
左目は見え辛くて、頭もずきずきしている。
体力がほとんどない。だるい。脳が焼けきっていて、判断ができない。
逸見は知らない女の手を退かせて、「帰ってくれ」と告げた。
そのまま立ち上がって、だるそうに舞台から降りた。
少しの揺れの後、目に見える範囲のすべての照明が消えた。
状況を飲み込めないまま目を擦りながら、真っ黒の人物を通り過ぎて、出入り口の扉に手を触れた時。
後ろから、気配のない手が、逸見の腕を掴んだ。
振り返ると、真っ黒の人物の中身と目があった。よく似た眼。
ない頭で次の言葉を紡ごうとした瞬間、目の前の扉が勢いよく開いた。
「平和的解決なんてもう古いよ、ネモ」
知らぬ名前を呼ぶ男、ノース。少し前に全ての照明が消えた原因。
ネモと呼ばれたであろう顔のない者が、逸見の腕を後ろへ引こうとする。した。
「下がっ、「きみは僕に勝てないんだから、辞めたら」
逸見の胸に刀が突き刺され、そのまま舞台の前まで蹴飛ばされた。
元いた場所まで戻され、全身を強く打った逸見はの体力は、一瞬で落ちていく。
いつものアレがない。あれがない。電流がはしらない。雷が落ちない。ネクロ。ネクロ。
「腹の中出したら、彼。助けてあげる」
気づかれていた。とっくに。下準備の時間を楽しんでいただけ。
ノースは舞台の前の逸見を指差して、「どうしようね?」とネモ向けて微笑んだ。
ネモが押し黙るなか、舞台へと向かう。ちょうど場内の真ん中に立ったノース。
「⋯⋯⋯異邦人。きみは」
___。
次は誰がコマドリになる番なのだろうか。
あっちへこっちへ、おもちゃのように行ったり来たりをして、胸を真っ赤に染めた彼がそうなのだろうか。
わずかな疑問から小さじ程度の憐れみがXiの中で生まれた。だから彼に与えるのも小さじ程度の情け。それに夢は夢、ここは現実。
Xiはぬいぐるみのような彼へ寄ってその胸に突き刺さる刀を抜いてやり、手袋を脱いで少しばかしの血を傷跡に落としてやった。
ついさっき取り上げた、冒涜的な奇跡が逸見の傷を良くしてくれるのだけれど。ならば彼はコマドリでは無いのだろう。コマドリっていうやつは、赤い胸で、ちゃんと死ぬやつのことをいうものだ。
『あなたのお葬式は、私のところで開きましょう、ネ。』
絶え絶えながら息をしている彼の瞼に手を重ねて、Xiはやがて寝かしつけた。その姿はまるで母親のように見えるかもしれないが、母の無いこれに母を重ねるということはよっぽど愛とかそういうものに飢えているのかもしれない。
『ところでこの刀、かっこうがいいのでとても気に入りました。頂いても構いませんよネ。』
とは言ったものの、彼女は彼の返答を聞くつもりなんて全く無い。その節操の無い刀を手に立ち上がり、微笑んで向こうの彼らに古臭いお辞儀をした。
次の瞬間、もし彼らが瞬きをしたのなら、姿が魔術的に一瞬で消えたように見えたかもしれない。彼女は逸見の影に沈み、劇場の至る所にある影を伝ってノースの影から再び姿を表した。
『初めまして、はじめまして。驚きました?私たち、驚かすのが好きなんですヨ。』
「……………」
で?
な に が し た い わ け ?
ノースは心底つまらなさそうな顔をして、空気を噛んだ。
まるで興味がない。まるでしょうもない。つまんない。あほくさ。
そんな感情をルーレットで回して、ルーレットごと破壊して。無表情で異邦人を見た。
「はあ……… 鬱陶しい」
大きくため息を吐いて、頭を振って、手をひらひらさせる。出口を向いて、足を進める。
途中、黙って佇むネモの横を通りながら"先行ってる"と呟いた。
入ってきた扉を怠そうに開けて、振り返らず告げる。
「腹のそれ、出しといて」
そう言って、劇場を後にした。
置いていかれたというべきだろうか。
後片付けを任された、丸投げされた、⋯ああそれだ。
後始末を丸投げされたネモは、周辺にノースの気配がないことを確認してから、上着の裾を掴んで、少し上に持ち上げた。ボトボトと、がらくたや古びた刃物、あろうことか骨まで出てきた。
「……………貴女、」
フードを被って顔が見えないまま、異邦人に話しかける。
ある程度のがらくた達を降ろして、上着をはたいて埃や砂を払った。
「ああいえ、申し訳ありません__
ネモと申します 外界の帝の、付き人に御座います」
フードを降ろすと、長春色の髪に、薄くて細い目をした顔が露わになった。
ネモが上着の中のがらくた達と一緒にユピトリを出さなかったのは、異邦人を信用していないのか、あるいは、ユピトリの存在を知らせるべきでないと判断したのか。彼女が腹の中でどんな夢や記憶を見ようが、腹が中身を隠そうが。ネモがユピトリを"勘違い"していることは、異邦人が殺意を持っているならば、この場のだれも指摘するべきではないでしょう。