4章 29


「おとな一枚」

「はい、はい、ええ。」

「どうもありがとう」


 一番うしろのさびれた椅子に腰掛けて、大きなスクリーンを見つめる。

 ずっと暗い背景に、水滴の落ちる音、風の抜ける音が続いている。

 正直とても退屈で、途中で何度もふねをこいだ。


 来場者はほかに数人いて、奇声を発したり、泣いたり、呆然としているものだったり。

 この映像の、どこにそんな起伏するものがあっただろうか。

 まだ続く暗背景に、もう眠ってしまおうと自分の意思で目を閉じた。

 燃える夢。赤い夢、死なない夢。揺れる夢、落ちる夢、

 ___途中で、買ってもいないポップコーンをすぐそこで漁る音で、目が覚めた。


「…………….  あの、」

「ん」


 何だ。たくさん席が空いているのに、わざわざ隣に座って、おれのじゃないけど、ひとのポップコーンを勝手に食べて。声をかけたら一文字で片付けて、自分の手で掴めるのに、わざわざ手渡しされて。

 髪で表情が見えづらくて、こっちを一切見ようとしなくて。でもなんだか顔を覗き込むのは失礼だとおもって、誰のかわからないポップコーンを口に含んだ。


 わざわざ隣に陣取った人は、それ以降ポップコーンを食べなかった。足を組んで頬杖をついて、たまに足を組みかえて、おれの肩を枕にして。顔が見えそうだなとおもったけど、やっぱり辞めておいた。そうしてたまに手を握って、終わりのない映像を見続けていた。


「ね お前 まだ消えないでよ」

「………なんですか。もう。死後に口説かないでください」

「…………」

「急に黙らないで」


「寿命やるから、力貸してよ」

「おれ、死神じゃありませんし」


 初対面なのに初対面ではない気がして、顔も見ていないのに顔見知りな気がして、返事がはずんでしまう。あるはずのないことをしてしまう。その人はため息を吐き立ち上がって、こっちを見た。スクリーンの光に照らされ、亀裂の入った顔が見えて、思わず心の声が漏れ出た。


「まあ。よく似ていますね」

「なにが」

「北の彼に よろしく頼みます」


「ハハ、なにをだよ」


 その人はどこからともなく出現させた水をスクリーンにぶちまけて、映像を中断させた。

 緊急メンテナンスの文字が映し出されて、どうやらしばらく待つらしい。

 気づいたころには、"その人"はどこにもいなかった。


 はあ。呼ばれている。

 だって、聞こえるもの。見えるもの。この建物の全てが。

 契約者の心臓の音、喉の音、泣き声、鳴き声。


 彼女を入れた部屋を防音にして、聞こえなくした。聞きたくないもの。見たくないもの。

 お気に入りのぬいぐるみをボロボロにされて、泣かない子はいない。ああきっと僕も、そのひとり、僕はあなたが嫌い。嫌い。憎い。大嫌い。


 ボクの名前を、おまえの声で呼ばないで。

 呼ばれたネクロは部屋の扉越しに、ユピトリに答えを返した。


「僕、あなたと対面したくないので ここでお話します」

「途中で僕の言っていることが分からなくなったら、部屋の窓から飛び降りてください」


 ―いますぐにでも飛び降りて。はやく。


「あなたが彼を発狂させたせいで、器からいい塩梅で守っていた因子が漏れ出て、その結果化け物がここへ流れ込んできました」


 ―僕だって傷つきたくないけれど、傷ついた契約者をみてぼくが傷つくのも嫌。


「時間の問題でも、人員の問題でもありません」

「僕はロゼに、あなたを"頼む"と言われました」

「でもロゼ 僕と契約してくれないんです」

「ですから、頼まれません。」


「この騒動に乗じて、あなたをここから追放します」

「紙袋に入ったお菓子も、底のばればれの盗聴器も。全部」

「全部、全部」


「…………僕は個人的な理由で、あなたが憎い」


 その言葉を最後に、扉越しになにも聞こえなくなった。

 ネクロはすぐ側にいたレノを連れて、館内の奥へと姿を消した。


「まってよ。」


 はだかのまま彼を追いかけて部屋の扉を開けるが、すでに影はどこにもなかった。

 そこでユピトリは振り返って、彼がいうなんの変哲もない、ただ普通の窓を見た。


 何か使命があるのであれば彼女はいくらでも窓から飛び立ったかもしれない。しかし劇場という場所がどういうものであるかを考えるならば、ネクロの言葉は随分と残酷である。

 そう揶揄されるほどには嫌われてしまったということなのだろう。


 ここは日常と切り離された場所。ここは日常を覆す場所。ここは日常へなってはいけない場所。

 彼の言葉を借りるならばボーナスステージへ足を入れることを許されたというのに。まだなにもしていないと思っている彼女は、荒らし尽くされてくたびれた彼に非日常からの追放の判決を下された。それも憧憬の名とともに。


 ところで彼女に「ついほう」という言葉を理解できるだけの頭があるのだろうか。それに、おおきなかいじゅうがたからものを踏み潰したって、かいじゅうにはたからものを踏み潰したことも人の気持ちも分からない。

 実際、あれだけギャアギャアと酷く騒いだことをユピトリは覚えていないし、彼女はいつだって空腹に苛まれているのだから今更、腹のことでなにか疑問に思うことも無かった。


 その証拠にユピトリは困って不貞腐れて、口を尖らせながら「うん、ばか。」と今に名前を付けた。

 もちろんそれに対して返答はないだろうし、残された静けさは風邪をひいてしまいそうなくらいには冷たい。


 仕方がない。と、彼女はまるで辺りを気にせず体を大きく振るわせて水気を振り落とし、あちこちに水溜りを作る。そして扉も閉めずに脱ぎ散らかしていた衣装に袖を通した。まぁ、その。彼女の衣装に袖なんて一つもないのだけれど。


 とにかく。彼女の記号の一つ、晴れの日を願う時のおまじないのような牙装のリボンもしっかりと結び直して、なぜか短くなった髪を簡単に直して。万全の準備をして、両手で勢いよく窓を開けた。


 吹き込んだ風が、牙装にわずかに染み付いていた煙たい匂いを飛ばしてしまったけれど。それになにか勘違いをしたユピトリは、まだここで羽ばたけるものだと思い込んでしまったようで。どこかに行ってしまったネクロを探して迷子になりに、再び館内へ飛び出した。


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