…………気持ち悪い。
行われる過程に、ネクロはただほんの僅かの嫌悪がみえる表情を続けた。
彼女は変わらないほうが可愛らしいだとか、
他人から触れられるのが嫌だとか、血が嫌だとか、
この惨状からはやく目を背けたいだとか、着替えたいだとか、
言い訳で上書きするよりも、ただ気持ちが悪かった。
自分の位置を気にかけるよりも、気持ち悪かった。
他人の真似事が、気持ち悪くて仕方なかった。不快でたまらなかった。
無垢なあなたの部屋は、花や草や土に囲まれた部屋は。
ああもう、語るのも、嫌らしい。
握りしめられ絡められ汚れていく自分の手を哀れんで。
自分から差し出した手を振り払って、大事そうに自分で握り込んだ。
___干渉"したくない"。 そう思った瞬間、
脳の四方は壁に閉ざされて、わざわざ彼女を捉えようとするのを辞めた。
「彼の、ヴァイスの使っていた部屋がありますから、そこへ」
「案内しますから」
「……悪い気を起こさないで」
ネクロはユピトリに背を向けて、変わらぬ速さで歩く。
先ほどより少し嫌そうな表情をして、目を閉じて。
ロビーを抜ける際。酷い有様の逸見より先に、レノに電圧を贈った。
そのすぐ後。天井へと向けて、ネクロの背後で風が吹き抜けた。
手を打って音が弾けたくらいの小さな風だけれども、髪が揺れて彼が空気の流れに気づく頃にはもう彼女の姿はなかった。
煙も花びらも残すこと無く、たった一瞬の隙間の間にどこへ行ってしまったのだろうか。
どうして行ってしまったのだろうか。
あなたが捉えるのをやめたから?語るのをやめたから?考えるのをやめたから?
安寧を望むが不変は望まない幼児は、花や草土のたったそれだけで展開された鳥籠を、失望をもっていよいよ誰かの手を離れ、意識の外へ、意識の外へ。
…ということが彼女にできるのならいいだろうが、まだごっこ遊びしかできない子供の臆病さでは生憎、そんな大それたものはできそうに無い。
代わりに彼が何に怯えているのかを聞くくらいなら出来るだろうが、先程の素っ気ない振る舞いに口が止まる。嫌われてしまっただろうかとか、怒っているだろうかとか、そんなささくれを労る気持ちなんてユピトリにはこれっぽっちも無いだろうに。
ああいや、彼の衣装である無表情がほつれているのだから「どうしたの?」という、分かりきった言葉がこの場に不似合いな事に彼女は気づいていたのだろう。
積み木が崩れる事には積み木が崩れたのを見てから知るくせに、しかしそういうところばかり都合がいい。
そしてそれに安堵したり心細さを覚えることも無い。
彼女にとっての死神が散り散りになって飛んでいったのを眺めて、酷いあり様に仕返した鬼の最後を眺めて。
誰もが生まれてくる前の方が綺麗だったことを思い知ったここを抜けて、ネクロの妙に白んだ背中を眺めて、独房しかとても思いつかない彼の部屋を想像して。
少なくとも軽やかでは無い足取りでついていく。
ひどく思う。
この足を一歩進めるごとに、"ああ僕の世界へ、逃げてしまいたい"と。
僕を置いて外へ出た僕は、滾るような衝撃と可能性を求めて、今。苦悩を得た。
大きな拠点に根を張って、客を選別し契約する。管理者はきっと楽しかった。
ネクロはユピトリの意識や問いかけを全て無視して、とある部屋の前で足を止め、ドアノブを回した。
いたって普通の、よくある客室。寝台があって、棚があって、にせものの花があって、シャワーとトイレがある。窓からは荒廃した旧市街地が見えて、うろつくばけものも見える。部屋は彼の匂いは殆どしなくて、あまり使われていないことは明らかであった。
「⋯旧市街地には、複数の拠点が存在しています」
「ここは物資もなければ、人も三人しかいませんし」
「隠居している訳でもありません」
ネクロは窓から外を眺めて、小さく呟く。そして彼女へ振り返った。
「ではなぜ、大勢のばけものが流れ込んできた?」
首を傾げて、いつもの調子。ではなく、ただじっとユピトリの目を見た。彼女を見定めるような、舐めるような、あなたの知っている「いつも」と違う目。あなたはもう、取引相手の秘蔵っ子ではなく。この機械の、ネヴラの。対等な"相手"。
「………急かして申し訳ありませんが、それが終わったら話があります」
「どこかにいますから、呼んでください」
ネクロはそう言って部屋を出ると、思い出したように扉を再度開けた。
「水しか出ません。あと、拭くものは棚に」
当然手を挙げることもなく。"では"と愛想なく、静かに扉を閉めた。
客室の扉を閉めてから。重くない足取りでロビーへ向かう。
首輪に触れて、ふう、と息を吐いた。
ゆっくりと、彼女は右と左の手で頭を掻きむしった。落日のように羽毛が落ちる。舞う埃が窓から差し込む明かりに瞬き、部屋が呼吸をし始める。
一人とはひどく無慈悲な時間である。これまでの所業を、誰に虚偽を申し立てること無く赤裸々に語るということ。
我々が心得る罪はここでは意味を成さない。事と真の実りに、ふつふつと沸る己の岩漿が下す裁きこそが独白の全てである。
それで、彼女が歩いた獣道は一体全体何だ。誰も彼も赴くままに手足を動かして、それでいてやけにずぶ濡れになるということはここは深海のどこかだろうか。自由を象る翼は、決してその通りの姿ではなかったのだろうか。
ユピトリはずいぶん間の抜けた顔で空を見つめる。
もしかしたら思ったより大変なことになってしまったのかな。
くらいの事は考えているだろうか。それともこの後に及んで空腹を患っているのだろうか。
ともあれ彼女は一度ベッドに頭から飛び込び、纏うものを脱ぎ捨ててようやく風呂場へと足を向けた。
おぼつかない手で蛇口をひねる。少し遅れて向日葵のような頭から水があふれてこぼれてくる。忽ちに全身が透明に覆われていくのだけれど。
冷水に当たって不在の自我が声をあげた。天変地異な俄然の酔いが覚めて、雑踏に見えなくなっていたものがようやく彼女にたどり着いたのだ。
稀有な道の下、思いがけず得た彼の血は生きていて。それは青銅の剣よりも鋭く、強い力を持って脊髄と神経を切り離すまで深く刺さっていた。
手のひらや腹から燭涙のように滴るものに、彼女の全身に覆した葡萄酒が染みてしまっていることがわかるだろう。
脈打つ音は、味気無い雨である。今しがた彼の問いに何か考えるならば、堕鬼だなんて名前のついた化け物もどうせ彼女の後に続く雨に肖りたくてやっていたのだろう。何しろ求めるのなら与えてしまうのがその性なのだから。
けれどもう、張り裂けた胸ではとてもじゃないがそんなこと。ああ、考えられまいよ。
誰かの名前を呼びながら。
力尽きて潰れた彼女は、なんだろう。
まるで太陽のようだった。