3章 24



 記憶力は良くもないが悪くもない。どこかで見たような気もする彼は...お前は誰だ。書き換えられている過去を留める者か。やり直している過去の結末の収束点なのか。

 ともあれ怪訝な顔をするユピトリは、二人の後を追いかけて地に体を下ろした。

 一体に広がる赤い世界。死の海でも劇場の演出でもなければ、本来秘密であらねばならないその色が顕現するということは、なるほどそういう事か。


 しかし赤い世界も三度目にもなれば慣れてしまうもので、彼女は当たりを見渡すとかそういうこともしなければ驚いて目を開きもしない。代わりに苦いものを噛み続けるように、味わうようにただ歯を食いしばる。


「...ご教授。」


 時計はとうに動くのをやめてしまった。それでは1秒が何分なのかも分からないが、感じ取れる程度の少しの沈黙の後。彼女は強がりを見せて、だらしなく地にこびりついた不安な彼へ、自分の名を知る不統合の不審者へ数歩足を歩めた。


「あなた、に。私の名前、は合っている。けれど彼は、違う。」


 彼はあなたに遮られてしまったけれど、それを思い出した彼女は聞こえるようにはっきりと彼の名前を呼んだ。それに応じるように、空によく映える白いものが落ちてくるが、彼女の体に触れるなり溶けてしまって消えていく。


「あなたは...うるさい風、ね。」


 それから嫌味らしく笑む彼に、全ての温度を振り払うように不敵な笑みをわざとして見せて


「あなた、私を殺せないよ。死ぬもんか。死んで、やるもんか。」


 そう言い切って自分の牙装から一枚大きな羽をちぎり、地を強く蹴り飛ばした。

 それは彼女の風切羽で、あなたとの距離を詰める刹那の中で一つの剣となって空気を割きながら、これまでの仕返しか、彼女は彼の腹めがけて剣先を向けた。



「…………風じゃないさ」


 男は彼女が生み出した刃を腹寸前で鷲掴み、数秒大人しくなった。

 直後、刃を掴む手からピシピシと凍る音がする。凍てついた刃をヴァイスの肺目掛けて思い切り突き刺した。


「はやく帰してくれないか、クラウィス」


 男はヴァイスの腹の上に乗っかって、彼を、下を向いて尻すぼみに呟く。

 刃が刺さったままのヴァイスは空気に溺れ、陸で溺れる。


「待ってるんだ、僕の、僕の……………。」


 次第に暗く赤く、なる空。雪が雨になり、雨が雪になる。

 一拍置いて、男は前を向き目を見開いて、ユピトリを見た。


「きみの半分が。」


 雨は、水は三人を濡らして、場を沈める。

 ヴァイスの血は雨と共に流れ、雨は地で凍り、ないはずの夢へと流れる。

 はくはくと息をしようとするヴァイスの口を手で押さえて、男は語る。


「僕と君は彼に信用されてここに連れて来られた

 死にたいと、殺してもらえると信用を置かれて呼ばれた

 僕が君を殺そうとするのも、君が彼を守ろうとするのも、」


 あんなに殺し合いではしゃいでいた男は、ヴァイスに視線を戻す。彼女に、ユピトリに語りかけながら、ヴァイスの口を塞いでいた手から水を溢れさせる。


「 わかるね、賢いんだろう 君 」


 溢れた水を凍らせ、動かなくなったヴァイスの目蓋を閉じる。

 男は立ち上がって、自分の上着を死体に被せた。


 死体を見下ろさず、すこし離れたところに立つ彼女を見る。

 止ませない雨に濡れて邪魔な前髪を退けることなく、ただ彼女を視界に入れる。


「ひとりで彼を殺せないでよかったね」



 おめでとう。


 無責任の間で彷徨っていた、天使と悪魔の間で泣いていた、高い海や深い空に相似したここで揺れていたあなたはようやく決心がついてついに、ついに死ぬことに決めた。


 置いてけぼりにされた百代の過客の後ろで悶え続けた末の、初めての英断。何を願い続けたその産声はようやくあなたがこの世界に生まれ落ちた証であって、慰めの無かったこれまでは全部あなたの母が見た悪い夢。

 蜘蛛の糸から手を離し、瞼の裏さえ見えない暗闇の中から明るみに這い出た、まだ乳飲み児のあなたは今彼から欲しかったものを欲しいだけ与えられて、祝福されて。

 空に無かった救いを得て一人、どこかへ行ってしまった。


 おめでとう。


 代わりに残された、滲み出るものを辿れば、剣としての役目を終えた羽が突き刺さった彼がいて。正気の所在が分からなくなった彼女は叫びたいのを必死に堪えて、小さな声であなたを

 呼ぶ。両手で風を掬う。


 けれどもうどこにも、どこにも白い雪は無い。


 濡れた彼らから咄嗟にユピトリは目を逸らす。しかしそこで不意に鶏鳴の際と目が合ってしまう。


 ああ。サラサラと、あの日風に舞っていった"彼女"の最期は美しいようにも思えたのに。今日は『たいへん嫌だなあ。』と思うばかりで、彼女はあなたを美しく思うことが出来なかった。

 また、その後を追いかけて西の一等星のように青白く燃える事もできなかった。というのも、今になってあなたの心を知ってしまって。あなたをそうしたものを知ってしまって。


 染み込む寒さに大変な悲しみを覚えて、体が思うように動かなかくて。思うように体が動かなくて。

 麻酔に痺れるように、一頻りに降るものの感覚も分からなくて。

 …


 …


 黙祷。


 琴線に雨水が溜まる。

 その雫がいくつか落ちて跳ねた頃、いつの間にか彼の傷口には一輪の白い花が咲いていた。

 小さな小さなシャロンの花。その花は彼女の足跡を示すもので、彼に混じった血とその羽がそこをそうさせたらしい。胸に置かれたそれはなんだか手向けの花のようにも見えるのだけ

 れど、それじゃあまるで、まるで。


 彼が死んだみたいじゃあ、ないか。


 もしかしたら、あったはずの奇跡を手放したのは、ユピトリの方だった。


 看守だった彼の言葉がようやく心臓に届いて、穿たれて、天秤に負けて、今際に遭ったのを知った途端に怖くなる。泡が破れるような声が出る。


 摂理の中の、不浄な渦。

 彼の言う通り確かにユピトリは賢くもあるので、およそ三度目のどうしようもない感情、現の津波が押し寄せてきて、彼女は白い波に揉みくちゃにされるような心地になっているだろう。あなたの隣に誰もいないように、私の隣に誰もいないのも知るだろう。


 待って、待って。そんなはず無いよ。

 そう思い込むほどに夢が本当になっていくのに、焼け落ちた糸に言葉も無く祈ることしかできない。


 恵をもたらす雨。豊穣をもたらす雨。その降り頻る雨の中に、生暖かいものが一つ。

 ユピトリは震える体を諫めて、辛々に翼を広げ、後退りをした後に格好悪く、逃げるように飛び出した。


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