望んでいたものの正体がいっさいわからない。折れてしまいそうな手と足を必死に伸ばして抗って踊ったわけでもない。流れゆく運命に呼吸をおいて、異常に馴染んできただけであった。
ある種メタである。誰しも考えたことがあるのではないだろうか。例えば、今実際にここに、少女に身を預けている青年の"心"はここではない別の場所にあると。そうであったならばと、虚に祈ったことがあるのではないだろうか。
"おれはおれである限り、おれのままだ"と。
精神と身を切り離せたなら、どれほど楽だったでしょう。痛み、血を伴わない、痛みと、血を知らない、おれの血がなんでもない、なんともないものなら、
「______________助かりたい 助かりたい助かりたい、助かりたい 助かりたい、助かりたい助かりたい、なんでもない、なんでもない なんでもなくなんでもなくなれ なにもなくなれ なくなれ なくなれ」
ヴァイスは目を大きく開き、壊れた鍵盤のように言を並べると、自分の手の甲の皮を勢いよく噛みちぎった。びちゃびちゃと、あの血液をわざと冷たい床へ垂れ落とすと、一本の細く赤黒い棘が地面からヴァイスとユピトリの腹を重ねて貫いた。
「ああ、勿体ない⋯⋯」
看守が鎧に飛び散った血を掬って、人差し指と親指をくっつけたり離したりして弄ぶ。
二人の腹を貫いた棘が引っ込むと、ヴァイスはフラフラと後退し、血に染まりながらも塞がりかけている自分の腹に触れて、手のひらいっぱいに自分の血を見る。後方に転がっているボールペンを掴んで、自分の手に勢いよく突き刺した。
ある物ある者で限りなく血を出そうとするヴァイスは、血塗れの両手で顔を覆って床にへたり込んだ。
呼び出したのは、紛れもなく。やさしくて、つよいひと。
両手で顔を覆ったまま、震える声で天を呼ぶ。
「殺して…………………」
一面の銀世界じみた錆びた世界。鉛色の空...彼からびちゃびちゃと落ちてくるそれは全ての音、呼吸や鼓動や頭の中の音を、不愉快な冷たさに隠してしまう。
そうか。冬が来たのか。
そうか。
そうか。
それは永訣の朝を意味するような気がして。気持ちが、煤を飲み込んだ燭涙のように妙な黒みを帯びながらこぼれた。雪のように積もった血だまりに身を浸しながら、信号の途絶えた自分の腕と濡れた彼を見ながら。
悲しみを伴ってやってくる痛みに、彼女は顔を歪めながら、彼の真似をするように、祈るように「たすけて」と呟いた。
それに応じた生きたい本能が、空いた腹を埋めようとして彼の呪いの力を借りて努め始める。
しかし、だからどうした。だからどうしたというのだ。それで何か強大な力を得るわけでも、絶対的な運命を勝ち取ることができるわけでもないじゃないか。明日が折り重ねられるように同じことがきっと繰り返されるだけで、安寧の確信へ辿り着けないじゃないか。
諦めるということ。失うということ。今際の際に晒されながら「それは、いやだなぁ。」と、どれほど悔やんだところで、思い通りにならない事もあるんだと解ること。つまり、つまり抗えないと知ったこと。
悟るには遅いが、もう時の境界も蕩けてしまって今が昨日か明日かも曖昧の最中。彼女の頬を伝うものが悲しみから後悔に変わった頃。
あなたのこころが知りたかった。
たったそれだけの青い未練に、死にかけた心が目を覚まして、熱を帯びて煌めいた。そこに自分の半分と命を思い出すと力が出てきたように思えて、そう思い込んで、彼女はよろめきながら立ち上がる。そしてあなたの、どちらかの願いかは分からないが感応して、天へ星を瞬かせるために上を向く。
"鳥の星"。
命を燃やすなら過去でも未来でもなく今である。
くちばしが曲がってしまうかもしれない。寒さや霜の剣に刺されるかもしれない。
それでもいいや。
ユピトリは彼の濡れそぼって千切れそうな体を掴み、燐のような光を纏って力強く天上へと羽ばたいた。
天井を突き破る音と吹き荒れる風が頭に響く。
頭と体は重くて、体にくっついているだけ。意思がない。
目はぼうっとしていて、眼球を動かす意思もない。
天から見えるのは、荒れ果てた国。空から、降るはずのない白。
この国から逃亡した時、振り返りはしなかった、あの。あれが。
追手がいなかったのは、妙に静かだったのは?
白い雪。雪。あつくて冷たい腹を撫でて、白い雪を吐いた。
あなたに手を引いてもらった未来をみて、目を閉じた。
雪を、みたことがない。どうして雪だって、知っているの?
どうして、彼女は、おれをこんなに生かそうとするの?
「…………」
「呑気なものだ」
ヴァイスのものでも、ユピトリのものでもない声。
突如、水を固めて凍らせた、氷のトゲが降り注いだ。ヴァイスは目をかっ開き、ユピトリの腕から抜け出し前に出て、自身の身体中の傷から真っ黒な刃を出して氷のトゲを防ぐ。
防いだのも束の間。氷のトゲに気をとられている間に看守が跳びかかり、ヴァイスは上空から蹴り落とされた。勢いよく地面へと背中をぶつけるヴァイスを追う途中。看守は、片眉を上げてユピトリを嫌らしく笑顔で睨みつけた。
「はっ、⋯⋯」
背中に大きな衝撃を受けたヴァイスが息を切らしながら起き上がろうとすると、氷のトゲが掌に突き刺さる。地面に張り付けにされたヴァイスを見下ろすように立った看守は、面を取って上空のユピトリを向く。
「ひどい匂いだ」
紫色の髪に翠の毛先。左右で色の違う目。中心にヒビがはいった肌。
看守だった男は片手を空目掛けて挙げると、次第に空が赤くなる。血生臭い赤い匂い。鉄の匂い。男は目を細めて、嫌味に微笑む。
「溺死にしようか、クラウィス
ユピトリ、君もだ」