3章 21


 光ではない三原色の中心は、きっと全ての色が羨ましくてたまらない。彼の行為が彼女へ対する信頼なのか恐れなのかは定かでないが、彼が彼女をここに呼んだということは、つまりそういうことなのだろう。


 けれど先ほどまで咥えていた"自分"がどこにもいない。受け皿も用意されていない寂しい音が、誰にも聞いてもらえないのに反響に反響を重ねて、ますますひとりぼっちを際立てていく。


 やがてはっきりと意識を取り戻したユピトリは、辺りを見渡して狼狽えた。

 彼女が好きなものは出会い、嫌いなものは別れ。けれどここは出会いも別れも無い。

 何も、無い。なんにも、ない。さびしいね。


 まるで子供が親を求めてそうするようにユピトリは鳴いたが、現在の呼び声はここに響かない。なのに、おかしな話ではあるけれど、過去を流れていく時に少しずつ具合の悪さを

 感じていく。


 ミミズは、嫌いではない。細長いツルツルとしたものが喉を過ぎていく感覚が非常に心地いい。

 ヘビは、好きではない。毒があることもあるし、飲み込んでも腹のなかで暴れられると苦しい。


 ユピトリはまだここが誰かの昔話だなんて知らないけれど、行くあてが無いので好きと嫌いの行く末を目指すことにした。

 時々前脚で黒い影を踏んでしまうこともあったけれど、潰した心地も殺した気持ちも湧いてこない。


 その違和感っていうのは、本当は大切にした方がいいのだけれど。酸素と一緒に心も薄れていってしまったのだろうか、気に留める事もしなかった。


 姦しい静けさの中、格子の森の中。

 あなたに会いたくて。

 いまはただそれだけ。



 どうやら彼女が迷い込んだ場所は、彼女自身に感覚はあっても、世界に彼女の感覚がないらしい。

 彼女が歩いて息をして、

 例えば松明の炎に息を吹き掛けたとしよう。松明自身はただの風だと思っていて、すぐそこに椅子を置いて居眠りをしている看守も全く気づかない。

 もしなんらかの理由で居眠りから我に帰っても、風で炎が揺れたのだろう"そう解釈する。


 しかし蛇と蚯蚓(みみず)は彼女に気づいている。するすると這い寄って、彼女の足にわざと胴体を擦り付けて過ぎていく。止まって彼女を振り返るものもいる。実態を持つものと、もたない"影"がいる。


 彼女はどうやら全てが見える状態にあって、

 彼女"と"おかしなもの"以外は彼女の存在に気づかない。


『おい、居眠り。あれから三日、変化は?』

『~~~~ぐっ、 はっ。あっ、えーーー…超、静かっす』

『居眠りできるくらいだもんなぁ』

『うっ…』


 二人の看守が話している。彼女に気づく様子はない。

 蛇が片方の看守に乗っかって体を巻きつけてみても、まるで。気づかない。

 鋼で覆われた鎧を通り抜けるだけで、本人に変化は全くない。


『___お疲れ様です  交代ですよ』

『もうそんな時間か』

『あれからホント雑音がなくて居眠りし放題っすよ』

『じゃ、頼んだ。一人で心細くて泣くなよ』


 そうして二人の看守が、一人の看守と見張りを交代した。

 交代した看守は椅子に座らず、迷いのない足取りで下の階へ降りて行った。

 一、二人で三フロアを担当するよう組まれている警備はザルだ。この世界では罪人は償わせることなく即座に斬首が殆どであり、以外は見せしめや実験台、また、体(てい)である。

 おかげで収容されている者も非常に少なく、数えるのに

 両手で足りる。


 おそらく最下層に降りた看守は最奥の牢へと向かい、鉄格子の前へ立った。

 なにやら話しかけているようで、一方的に話し終えた後、鉄格子の隙間からナイフを寄越した。


 それから看守は何事もなかったかのように上の階へと戻り、椅子へ座り直し

 鼻歌を唄い、何も描かれていない本を捲りながら。



 目の中に、耳の中に知らないものが入りこんでくる。

 人の灯火の長さはたったの五寸、彼女の生涯は五分と少し。解釈というものは如何様にも無限大にもできるものであって、時には閻魔様もはぐらかそう。弄ぶということはそういう事であって、しかし賢くあらねばならない。彼女がそこに至るにはあと三寸ばかし足りず、まして畜生風情に鼻唄の調も居眠りの現も理解に及べなかった。

 墓標も建てられず祀られなかった命として、あり方を定めてしまえばそれもまた奢りなのだろうけれど、事実彼女の世界はあまりにも狭く、ましてここは彼女がいてもいなくてもどうでもよいのだから尚更である。


 彼らの目の中に、耳の中に入りこんでみてもここはそういう世界。何ならくちばしで鎧をつついてみたけれど、まるで小石のように邪険にされるだけ。

 なにに対してかは分からないがはむしゃくしゃした気持ちになったようで、ユピトリは仕返しに息を吹いて看守の手にある本を、白い鳩のように羽ばたかせてみた。けれど彼らが驚いたのは、ただの風。

 わざわざわだかまりを確認して、心細さに泣きそうなのは彼女である。彼女は一人では生きていけない。


 となると、いよいよ振り向いてくれる黒い影たちに縋るしかないのだろうか。それが地獄への引き摺りとして用意された餌だとして、その善悪の彼岸にある知恵の実を食ったとして、それで満たされることなんて一つもないだろうけれど、それはなんだか恐ろしい。

 どうか、どうか恐ろしいことが起こらないようにするにはどうしたらいい?なにをしないといい?


 …

 分かんないや。


 そうして抜け殻はできていくのだろうか。彼がわざわざ彼女にどうしようもできないものを見えさせたのは、そういう意図があってのことなのだろうか。結局それも分からないので路頭に迷うばかりだが、その約束のできない感覚が、鳴き声を泣き声に変えていく。形を人に戻していく。

 相変わらず足元には黒い影が最奥を目指して蠢いているけれど。


「ヴァイス。」


 先ほどよりも大股に、早足に、影を追い越して向った。

 やがてたどり着いたそこには、寒がっているようにも痛がっているようにもうずくまっているようにも見える影が見えたけれど、ユピトリは何も言わずに鉄格子の隙間から手を伸ばした。


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