可哀想な小鳥が、泣いている。でも、何を言っているのか、聞き取れない。自分の声だけがひどく反響して、声量が掴めない。が、泣いているので、おそらく通じたんだろう。こうでもしないと、……
男はゆっくりと立ち上がって、ソファで観客と化していたエルドレッドに小さく「風呂」と珍しく単語のみを告げ、おぼつかない足取でバスルームへと歩いて行った。
___
積りに積もった感情に毒を刺されて決壊し、うずくまってしまった彼女と、二人。場を取り持つ男は席を外した。珍しく。ひどい言葉を吐き捨てて。
かける言葉がまるでない。
お願いだとか、そんなことを言っていた。平和だとか、そんなのだろう。よく知らんが。本当に、よく知らん。
「ユピトリ」
ソファに座ったまま、離れにうずくまるユピトリに言葉を投げる。
「これはしがない研究者の独り言なんだが」
「想いは積らせるほどに美しい」
立ち上がってユピトリのすぐそばまで行き、うずくまって泣く彼女の上に、泣く姿を隠すように、ブランケットを投げ被せる。
「……が、それに潰される者もいる」
更に周りを数個のクッションで囲み始める。
「大人はずるい
ので、1から500まで説明しないと、理解はしても共感する気にはならない……」
とうとう彼女の前に座り込んであぐらをかいて、肘をつく。
「ご教授頂けますかな、安寧を探す戦士様」
べそかきの前に座り込んだ男は、片方の眉を上げて、いつもの調子で説く。
泣きじゃくる彼女の声は、きっと彼にとっては脳に針を刺されるように不愉快かもしれない。子供の扱いに慣れていない様子を見るに、そう思っているんじゃないだろうか。
ともあれ、せっかく不器用な彼が弱り果てた姿を隠そうとしてくれたのに、ユピトリは顔を上げようとはせず、伏せたままである。
「もういやだ。もういやだ。
分からない、もう何も分からない。
アンシャンテって言ったの、ロゼなのに。はじめましてを教えてくれたの、あなたなのに。」
この通りである。紡がれるものは辿々しく、今ここにおいて、彼女の気持ちを代筆しようか悩んだのだけれども。せっかく、探究心に富んだ者がいるのなら、少し考えてもらおうか。
お願い。彼女の声を、聞いていて。
「私、もう、さよならを聞きたくない。言いたくない。見たくない。
それは、私の、嫌いな言葉。嫌いな言葉。
ねえロゼ、私にそれは、教えないで。言わないで。知りたくないの。お願い、やめて。
なのに、あなた達。さよならを望んでいる。
ねぇ、やめて。やめてよ。やめて。」
慟哭の雨が足元を濡らす。ひとりぼっちを怖がった、ユピトリの気持ち。
「どうしたらいい?」
どうしたらいい
どうしたらいい どうしたらいい?
どうしたらいい?どうしたらいい?
「…………」
どうしたものか。はて。
研究者の心は、いたって正常だった。懇願され、道を縋られ、泣きじゃくられても。顔色ひとつ変えず、熟考することもなく。ただただ、いつもの調子で言葉を紡ぐだけ。
ここに彼岸などありはしない。
ましてや私は神でも教祖でも先生でもない。
無知を、幼さを、警戒心の無さを呪え。
考えて、考えて、考えろ。
もがいて、足掻いて、叫べ。
判決など言い渡すものか。
お前の人生は、お前が決めろ。
研究者は、紫色の石がはめ込まれていた、空の首掛けだったものを指で弄ぶ。
「お前の悪は、私の正義かもしれん」
「そして、私の悪は、お前の正義かもしれん」
「私は お前に」
悲しみと迷いに暮れて、下を向いている彼女がこちらを見ていないことを知りながら。男は自分を指差し、次に彼女を指差した。
「死の祝福を 与えようとした」「だが」
鼻で笑って、床に仰向けになる。
「今 ここにいるのは誰だ?」「話しているのは?」「此処は?」「あそこで燃え盛る暖炉の炎は?」「風に捲られる、本の項は?」「お前が肩代わりしたのは?」
「…………お前に、初めましてを教えたのは?」
よく喋る上機嫌なエルドレッドは、起き上がって、べそかきのユピトリを、ブランケットごと、抱きしめた。
「お前が欲しいのは こういう安寧だ」
狸寝入りの自分を心配して、泣いてもらえるのは、誰だって気分がいいに違いない。それではせめてもの、安心と、眠気でもくれてやる。
「過去も未来も関係ない。今だけ見てろ」
確かにその通りなのである。
彼女の人生は、一度は人の手の下で行われていたのだけれども、二度目の今は己で己を飼わねばならないのだ。躍動に富む手綱を、他者に取らせる事などほとほと愚かな事じゃあないか。
彼が他者と交わる事が難しいように、彼女が人を疑う事はとても困難ではあるけれど。それ以外は胸につかえることなく、素直に腹におちてくれた。
なので、彼の問いかけにユピトリは一つずつ答えていくのだ。
ここにいるのはあなた。
話をしているのもあなた。
ここはあなたの場所。
暖炉にあるのはあなたの炎。
本はあなたを示している。
肩代わりしたのはあなたの死。
あ。
これでは王だった彼が、小鳥風情に嫉妬してしまうのも頷けてしまう。
気高い福音に大いに愛されては、時に苦難の象徴とされて追いやられる、両価の意を持つ花のあなたに魅入られて。あなたの名前を呼んでいた。“エルドレッド・ロゼ”がいつもいた。
それなら、きっと、大丈夫。きっと、大丈夫。
だいじょうぶなんだよ。
「ロゼ。」
抱きしめる彼からは、大好きないきものの香りがする。名前を呼ぶたびに高鳴っていた鼓動は落ち着きを取り戻し、そのうちいつも通りの彼女に戻っていった。
彼女の胸の音、よく聞こえた?
ひとりぼっちで生きていけない彼女は、誰かがいないと生きていけないの。
けれどもう、大丈夫。
聞こえているよ いい顔しないで
聞こえてる
毒返して 俺の毒返して
おれの毒、 かえして
おれの返して
「ねえ 俺も、交ぜて よ」
愛しい男が、鳥風情をあやして抱きしめるこの惨状を。王は見下して立っている。
水に打たれ、拭かず脱がずそのままの濡れた髪と衣服から、水がぼたぼたと惨状の上に落ちる。水溜り、水溜り。海でも作ってやろうか。
「 」
なに 聞こえない
水の音がやかましい
視界が揺れているのか、俺が揺れているのか分からない。口も押さえず咳き込んで、血を吹いたのも、別に何とも思わなかった。
深海の王はただ、安寧にいるであろう二人を見て、ゆっくりと瞬きをして、足元に水溜りを作って。えらく酷く血を吐いてやった。