ヴァイスが首元を喰われて、首元が真っ赤に染まる。
自我を出さないと踏んでいた抜け殻が、先陣をきった。あろうことかガラスを隠し持って、獣の目の前でパフォーマンスをした。大進歩どころか、手を施せない"鑑賞不可能"な抜け殻が勝手にこちらに似てきている現場に、平然を装っていた口角が上がる。
脳で処理すべき事項と、手で処理するべき事項に頭を割く瞬間が愛おしい。
起こり得る事項の全ては、終へのほんの過程でしかないのだ。
ネクロは階段を降りて、獣と抜け殻の横を通り過ぎる。
血の海で辛うじて呼吸を繰り返す逸見の側へ跨み込んで、機械の名を呼ぶ彼に向かって微笑んだ。
「ね、くろ、…ねく、ろ ね、…」
「はい」
残った片腕を伸ばして触れようとする。その腕を掴んで、自分の指と絡ませた。部屋が暗くても、笑みは、忘れない。握って、緩めて、握る。
血が止まらない逸見を無理やり起こして、しゃがんだまま抱きしめた。
「おれ、おれ おれ…っ」
床と腕と体とネクロを血塗れにして、震えて、鼻水を啜って、涙を流して、血を流して、子供のように泣きじゃくって陸で溺れている。
「うっ、~おれ、 、あ、つ…おれは、」
「…………」
沈黙。笑みが崩れた瞬間、暗闇に雷撃が響く。抱きしめられて、指を絡ませて密着していた逸見は、ネクロの雷撃をダイレクト受けて、すぐに体力が尽きて霧散した。
ネクロは立ち上がって、指にこベり付いた血をひと紙めして表情を歪めたあと、床に転がっている死体、椅子に置かれている死体に向かって再び雷撃を放った。硬直していた死体は石のように砕け散って地へ落ちた。落ちたそれを踏み潰して、床にねじ伏せた。
そのあとぼそぼそと、石ころと腐臭が広がる暗闇で何かを咳いたが、抜け殻と抜け殻を覆った獣はとうにこの階を去った。悶えて上で暴れていようと、今は、階段を上がる気力が湧かない。
「…………ふ、」
機械はひとり立ち尽くして、爪を噛んで、小さく笑い声を洩らした。
しょうじき、先は考えていませんでした。というか、先を考えて行動したことが一度も。ありまけんでした。成るように成るというよりは、状況に応じるというか、起こってしまったことは戻しようがないだとか、やり直しは効きません
よとか、そういうこと。
ネヴラの従者が、イツミが寄越した視線の意味を理解する頭がなく、考えることを諦めて、自分以外のだれもいないフロアの割れたガラスを触って血を出して、紙めてみる。そんなことくらいはやってみました。踏んでみたり、握ってみたり、そうこう遊んでいるとネヴラがやってきて。硝子の破片を潜ませて、
ついて行きました。
今になっては、どうしてネヴラの前に立って、ユピトリ…彼女に血を見せびらかしたか、なんて。
「…………」
手ではなく、首元を食いちぎられて、襟を掴まれた。
一緒に来たネヴラは部屋の奥へと入っていった。
首が、あたまがずきずきする。けど、べつにつらくない。持ち上げられて抵抗する気のない足がぷらんと垂れ下がって、階段で擦れて、皮がめくれて、血がにじむ。べつに、つらくない。 痛くない。 痛くない。
現状の打破を望むわけでもない。 ただ目を閉じて、今の痛みに耐えるだけ。すぐに傷が塞がるものだから、気を失うにも失い切れなくて、死と生のぎりぎりを紡律っている感覚。気持ち悪い。
「っげほ、かは、っ…~ーお゛えッ………… 」
空っぽの胃から胃液が出た。ああ気絶できる。気絶できる。気絶できる。死と生を繰り返して、繰り返して、 苦しみに耐えて、疎くなる。変なものに出会って、心臓が、体がむずむずする。地面に当たっていないはずの背中が痛い。目がちかちかする。呼吸がへたくそになる。苦しい。くるしい、くるしい。
「ああ、~~~は、っ ハ…あぁぁあ、あー、」
「う、」
目をぎゅっと瞑って、全身を強張らせる。瞬間、塞がりかけていた首から、手のひらから、真っ黒な大量のヘビのようなミミズのような影が勢いよく飛び出した。ヴァイスはユピトリの毛を力のない手で掴んで、ヘビとともに彼女を暗闇へ引き摺り込んだ。飛び出し続ける黒いヘビが、二人を黒に包み込んだ。
異質と関わりを避けていたヴァイスが、彼女をトリガーとしたのは、 拠点を替えてからずっと。機械によって微電波を受けて、異常な異質を感知しにくくなっていたからである。逸見の離脱により管理を一時的に放棄したネクロは、微電波でさえ発信を中断した。館内の照明は落ち、入り口のセキュリティは手
薄、建物からは強力な異質な魔力。これがどういうことか、わかりますね。
舞台は黒。辺り一面真っ黒の、無空間。
あなたの意識の覚醒と共に、徐々に黒が引いてゆきます。
見慣れない場所、景色。
場所は監獄。ここは監獄。
下の階へ下りるほど暗く、酸素が薄い。
いるはずの監視が誰一人おらず、代わりに、
先程ネクロの拠点で見た、黒いヘビやミミズがそこらを這い回っている。
足元を這っても過ぎていくだけで、まるで敵意がない。
水の滴る音と、鎖の擦れる音。
幾つもある牢は見える限りほとんど扉が開いていて、
閉まってる場所は中が空っぽだった。
這い過ぎていくヘビやミミズは、全匹同じ方向へ向かっている。
全て下の階へ向かって、あなたを通り過ぎて行く。
時々どこからかのものか分からない泣き声が響いて、止んだ。
そうしてまた擦れる泣き声が響いて、また止んだ。