息を吸う。どきどきしない。ぞわぞわしない。しない。
刀を引っこ抜いて、腕を放す。刀を後ろの方に放り投げて、ユピトリが倒れないように、背中に手を回す。
ぞわぞわしたい。どきどきしたい。ぞわぞわしたい。ぞくぞくしたい。
血でどろどろの後ろをおさえて、ユピトリの腹と自分の腹をくっつける。
「~ー、to sides…it gonna be toni~ー♪」
彼女の残りの体力なんか気にせずに、ぎゅっと抱きしめて、ひとりで小さな声で歌を唄う。目を閉じて、彼女の音と、風の音と、空気を感じる。
彼女の両足が地面から浮くくらい強く抱きしめて、空が見える場所から移動する。ぽたぽた落ちる血なんか気にせずに、ゆっくり歩く。
「~~rk days,I`m terrified,…Iknow that som…、…right」
ガラスを踏んで、ちらりと、上の階でだらしなくこちらを見ているヴァイスを見て、目配せをした。ヴァイスはなにも反応しなかったが、確かに。彼と彼女を見ていた。
ユピトリとネクロが談話したであろうソファを横切って
味のない水を入れたであろうキッチンを横切って
ユピトリとネクロが入ってきた部屋の入り口を出て、
ロビーの大きな階段の裏の、ぽつんと佇む扉を開いた。
真っ暗でよく見えない。こつこつと靴の音がよく響く。
きっとながいながい階段を降りている。近くなる匂い。におい。
逸見はユピトリを抱えたまま鍵束を取り出して、何重にもかけられた鍵を解除してく。扉を開けて中に入ったが、締めはしなかった。
「And I wonder、…if he knows what ……………」
先ほどの、死体が転がっている場所よりずっと、むせ返るような匂い。真っ暗で、虫と人と地獄と卵とゲロと天国を煮込んだような匂い。
足を進めると、何かが載せられたテーブル。
の、“何か“を雑に落とした。遅くて重くて、痛い音がした。
なにかを退かしたテーブルの上に、ユピトリを寝かせた。
聞き取れる歌詞が鼻歌に変わった頃、逸見は慣れた手つきでユピトリの腹に包帯を巻き始める。テーブルの隅に転がった、べたべたで包装にくっついた飴を剥いて、口に含んだ。テーブルに腰掛けて、彼女の頬をそっと撫でて、じっと覗き込むように見た。
「____…………、」
何かを言おうとしたが、やめた。
彼女と口の中の飴が蕩けるまで。蕩けるまで、テーブルを降りて。さっき雑に下に転がした、数日経った死体を抱えて、揺れる椅子に深く座り、口の中を甘さで満たして、死体の背中を摩りながら、キィキィと椅子を揺らした。
遠くの日の天は青く、彼女の足跡は彼女が夢を見た場所へ続いている。
青い、青い、なんだか痛い青い空。点々と続く花びらの先は、何色であっても青い空。そこでは風が花束を持って歌っている。
けれど近くの今。閉じかけている傷が悲しんで、酸素を求めて息をするのだけれど。鼻の、肺の、血管の、体の中に入り込む不純物に溺れてなんだか痛くて、血の混じったものをユピトリは吐き出した。
彼の腕の中にあるやがての姿。大切にされて、大事にされて、避けられて、退かされて、また大事にされるその姿に、彼女は早々に気持ちの予行練習をするべきだろうに。うまく考えられなくてなんだか痛い。
何処かの誰かの名前を叫べば、きっとヒーローが格好をつけてガラスを破って登場してくれるのでしょうけど。
ここには悪役と廃れた研究者と鳥ばかりでなんだか痛い。
でもみんなとっくに知っているんでしょ。なんだか痛い彼女が、そもそも誰かの名前を叫ぶことが出来ないこと。
誰も彼もが自分の気持ちを自分の言葉で言ってくれないから。言ったところですれ違うから。
『きっとまだ怒ってるだろう』
この期に及んで泡のように先走る思い込みに、彼女ってば実はほんとはしょげている。
さぁさぁ皆々様。嫌いな女がそろそろ死にます。お手の準備を、拍手喝采の準備をしてください。なんて、未だ地続きのしょんぼりに少し拗ねてみようかなということは二度三度考えたこともある。
ところが彼女はそんな事、大嫌い。
「痛い。寒い。暗い。気持ち悪い。
ねぇあなた。私、何かしたっけ。まだ、あなたの名前、呼んでも無いのに。ねぇ。」
それから頼りなく腕を伸ばして、口の中のものをねだった。
画面越しに映る景色。“隠れてなさい“と鍵を渡された部屋、監視室。
初めて入ったが、思ったよりも使われていないようで、主であるネクロが現在座っている椅子以外は、機材も、何もかも若干埃をかぶっている。並んだモニターはどうやら館内の殆どが見れるようで、暇はしない。真っ暗でモニターに照らされては目が悪くなる、と指摘するのも無駄だと判断して、冷たい壁を背に、あぐらをかいて、床に座り込んだ。
暫くしてクニハルとネクロが入ってきて、普段と変わらぬ様子で話す。何だか蚊帳の外のような気がして、モニターを見ているふりをした。話が終わり三人でモニターを見るという絵面に仕上がり、たまにちらりと二人を盗み見ているとネクロが、一つの映像を拡大して、“したいことをしろ“と。そう言われたクニハルは部屋を出て行った。
再び訪れる静寂。機械の作動音と、たまに俺が姿勢を変える音。
音を立てちゃいけないような気がして、じっと押し黙る。一つの映像。例の小瓶を押しつけたあの鳥と、ヴァイス。音まではどうやら拾わないらしい。拾ってくれれば、この緊張感も、マシになるのに。
モニターをずっと見ている彼を見て、蚊帳の外、ああ。当たり前だなと思って。黙ってぼーっと、向こう側の壁を向いて、視点をぼやかした。
「貴方、彼女のどこが嫌いなんです。」
…………、俺か。急に音を出すもんだから、モニターを見続けていた音の主を視界に入れようと頭を動かした。が、いない。顔を上げた先にあるのは、くるくる回る椅子のみ。
「僕は彼女、好きですよ」
「いろんな感情があって、玩具箱みたい」
目の前。飴玉みたいな黄緑。視界の端からぬっと出てきて、捉えて離さない。
ホラー映画みたいな演出に、背中と首と壁が密接する。覗かれてるみたいな感覚。シャッターを切るような瞬き。思わず唾を飲んだ。
「僕のどこが嫌い?」
体温のない手に頬を撫でられて、視線を合わされる。
これだ。こいつの楽さはこれ。話さなくていい。会話を展開してやらなくていい。勝手に物事が、話が進んで、勝手に引っ張ってくれ…くれる?引っ張って、くれる?なんだ、この考え方。頭が、勝手に。
「僕を見て」
「目の前にいるのは誰」
「僕にしなさい」
___どこが、嫌い?どこが怖い?何が怖い?
「そういう、とこ………」
重くなる頭を支えきれなくなった身体が重力に従おうとする。きっと支えたのも、なにかを囁いたのも、ネクロ。俺はモニターに映る惨事を知ることなく、眠りに落ちた。
___ひとより目が耳が、鼻が効く。
ゆらゆら揺れながら、体温のなくなった重い死体を摩っている。ゆらゆら揺られながら、なにも考えないでいる。黙って目を閉じて、死体の背中を摩る音だけを聴く。空っぽで、終わった音。
先ほど抱き抱えていた鳥の女が、ぴいぴい鳴いている。徐々に動きを止めて、自分が座っていた椅子に死体を置いて、立ち上がる。上着を脱いで、死体に被せてやった。部屋の電気をつけて、ユピトリに近づいた。
急に明かりをつけられた部屋。天井には枯れた花や実が沢山吊り下げられていて、足元には四人の死体が壁に凭れさせて放置されている。死臭。血の匂い、海の匂い。目立った外相はなく、見ただけでは死因がわからない。
「気になってたんだ」
彼女の横たわるテーブルの、彼女のすぐそばに鼻を近づけて、嗅ぐ。
「アンタから、ツァラの匂いがする。」
自分の口から舐めかけの飴を摘み出して、ユピトリの口へと捻じ込んだ。
それから彼女の上へと跨って、テーブルが軋んだ。灯りを背に彼女を見下ろす逸見は、きっと、ひどい顔をしている。
「食ったの 食われたの、………」
尻すぼみににぼそぼそと呟きながら、自分の腹と手首の包帯を解いていく。顕になったのは切り傷でいっぱいの真っ青な腹と、切り傷でいっぱいの手首。
「これが2日前で、これとこれが3日前…」
「消えかかってるのが、そこの女に…やってもらったもの…」
傷口を指して説明して、ほんのり口角を上げた。まだ縫われて間も無く塞がりきっていない腹の傷を指で無理やり広げて、ぶつぶつ切れていく糸か腹かわからない音と頭に、少し肩を震わせて悶えた。
「ん、ぅ゛、へへ……ハハ……いいなぁ…」
腹から漏れ出た血を掬って、掬った指先に刃物で切れ目を入れる。飴の甘さと腹の痛みと気持ち悪さでいっぱいのユピトリの口元に、指を近づけた。
「ぁ、レヴナントって、他の同族の血、舐めていいんだっけ…」
「いいや…好きにしろって、言われたし…」
動きを止め。考える素振りを見せて、考えることをやめて。
再び真っ赤な人差し指を向けた。
「ほら 舐めて…」