2章 13


 いつまでたっても笑顔のまま。それが彼にとってのデフォルトの姿、無表情、常なのだろう。蛇のような、狐のような、そのような狡猾さと分かりやすさが垣間見えている。


 いつの日にか、疑う事を覚えろと言われただろうに。指さされた部屋へ、ユピトリの足はまっすぐに向かう。それから部屋の前で、彼の笑顔に応えるように口元を緩める。


 少しばかり唇が湿っているように見えるのは、おそらく彼女の食いしん坊なところが、早くお菓子を食べたいと強請っているからだろう。ご覧、目が泳いでいる。


 単純かつ分かりやすい彼女を、より簡単に思い通りに動かしたいのであれば、餌付けはとても効果的であろう。


「うん。」


 ここは他者の場所。それを理解している彼女は、パンドラの箱のような匂いのする部屋の前でただ、彼が扉を開けるのを呑気に待っている。



 お菓子なんて、僕も國春も食べないのだから、あなたのためにロゼからわざわざ用意したものなのだから、ここへくる途中にでも食べてしまえばよかったのに。完食しても、だれも咎めないのに。


 僕もあなたも、我慢のきく“いい子“ですね。


 それではいい子の僕が、いい子のあなたにお見せするお部屋。ああごめんなさい、まだ序盤です。

 ひとつひとつ、ゆっくり解いていきましょうね。


 二枚の大きな扉を開いて、どうぞと奥に手を送る。


 部屋。入って向かいの壁一面と、2階ほどの高さのある天井が、ガラス張りになっている。

 まるで植物園のような、伸び切った草と葉と、少しの花、緑に覆われたほんの隙間から、差し込む陽が心地いい。


 いくつものソファとテーブルが用意されていて、どれも埃をかぶっていたり、くすんでいたりしたが、ひとつだけ。使っていた形跡のある席が見える。


 テーブルに何冊か積まれた冊子、空のコップ。

 そこのソファに手を向けて、同時に口を開く。


「 あちらへ 」

「 水しかありませんが、構いませんね 」



 ユピトリは口を開けたまま窓の外の、青々とした空間を眺める。彼の声が聞こえないわけではないが、およそあまりにも初めてすぎた景色に気を取られてしまっていて、ただ頷いて返事をした。


 建物の中だというのに、世界の中に世界がある。入り組んだ文明が折り重なっているここは、新天地だというのにどこかでノスタルジックな気持ちを沸き起こさせる。もしもこの地の主が良いというのであれば、彼女は早々に翼を広げ、世界で羽ばたきを始めるだろう。


 埃っぽい床に自分の足跡が残っていることにも気づかないほどに、あたりが気になってしまって落ち着かない彼女は、“いいお部屋”の意味を正面から受けとって喜んだ。


「なんだか、面白い。広いここに、2人だけ?」


 淡い陽に揺れる黄緑色の目を、銀色の目が見つめる。



「ええ。」


 勿論。あなたと僕、一匹と、一体だけ。

 影に傀儡を忍ばせるような真似は、致しません。


 備え付けの流しの蛇口を開くと、銀の地面に水が規則的に流れ落ちる。

 少し水に触れた手を、布で拭って、


「綺麗でしょう」


 圧倒的な緑と自然を前に口を開けるのも無理はない。

 ぼくも機械に囲まれた部屋より、こっちのほうが。


 白いマグカップに水が入れられただけのものを、ひとつだけ。案内したテーブルに置いて、取手を反対側のソファの方へ向ける。


「どうぞ好きなだけ、寛いでください」


 何冊か積み上げられた冊子のうちの一枚を手に取って、ぺらぺらと捲る。たまに外の緑を見つめては、ぼーっと瞬きを繰り返して、また冊子に視線を戻す。


 あるはずのない眠気と、疲れと、だるさを引っ張ってくる、そんな部屋。


 自然に勝ってやろうとしない機械は、どこかおだやかで、拠点につくまで背負われていた時と同じような。うっすらと、疲れたような表情をしていた。



 カップを覗き込むと白い底が見える。どれだけ緑に囲まれようと、埃や星霜が積もっていようと、差し込む光は無垢であった。ユピトリは小さな舌先を水面に走らせて、混じり気のない光を含んだ水を一口舐める。多くを歩いて様々を見るうちに熱を持った喉に、ぬるい雫が染み渡る。その心地が気に入ったようで、彼女はもう一口、また一口と水を舐める。


 やがて半分ほどを舐めた後、満足げに彼女はため息を吐くのだ。


「ふう。」


 緩やかにこれまでの緊迫した胸が緩み、ユピトリの羽角や尾羽が寝る。人では無い部分が人よりも分かりやすく寛ぎを示していて、最中で共に緩んだ口元が、彼の醸し出す微睡みなど気にせずに語らいを始める。


「あのね。あんまり、家の中というもの、見たこと無かった。ロゼのとこくらい。

 ので、うふふ、私、今ワクワクしている。


 あのね、あのね、それとね。ここ、私のお気に入りの場所、似てる。」


 時折爪で白いカップの肌をなぞったりつついたりして、非日常的な触感を堪能しながら。


「そこはね、屋根がないので、土ほこりとか、雨風とか、時々困るけど。とっても静か。

 草と木もいっぱい。ブランコも、あるの。ねぇあなた、今日のお礼。いつか、来る?


 あ、でも。もっとあなたの事、知ってからお誘いっての、した方いいのかな。」


 マグカップを指で弾き、短く軽い音を鳴らす。

 それから気怠い彼を見てレスポンスを待った。



 お礼。


「お礼…………」


 胎内に入り込んだ少しの水気を処理しながら、すこし疲れた目とあたまを大人しくさせる。


 持っていた冊子を閉じて、テーブルの上へと積む。彼女のお話は耳に認識されていましたけれども、“お礼“の二文字に完全に意識が入ってしまって、まるで他はあたまの改札を通らなかった。


「僕、 お礼は ロゼがいいです」


 わずかに口元を緩めて、それから。


 ソファに完全に身体をあずけて、横になる。すこし身体をまるめて、目の前の大事な客人をも憚らず、誘われるように眠りに落ちた



 主が眠ったことによるものだろうか。鳥の少女が羽を下ろして喜んで寛いでいたあたり一面の緑が、あろうことか。赤に染まっていく。否、赤に、戻っていく。


 其れが何を意味するか、わかるでしょうか。

 嗚呼。まだ産まれてすらいないあなた、眠気に感けてまるで産まれようとしないあなた。


 客人をもてなすという業を持たず、気の赴くまま己に付和雷同な様は、自由な様に見えるのに。どこか囚われている様に見えてしまうのは全てがワザとらしいからだろうか。というのも、全てがあまりにも、完璧すぎてしまうのだ。深緑の終わりや、言葉の一つさえもが。


 さて、それで。彼女は誰の胎内ヘ堕とされたのだろう。よもやこの景色に疑問や怯えなどを抱かないほどに、あなた達に育てられた心は辺りを見渡して、まだ少しの余裕を含んだ顔をする。


 仕方も無い、彼女は元より分かっていたんだ。泣き喚いた頃から、彼の特性には気がついている。不穏や不穏、多少の茶目っ気とそして不穏を纏う彼について行ったのならば、おおよそ常識ある展開や結末には至れないなどという事。


 そも、常識とはなんだ?


 否、否、元よりおかしい事など一つもないのだから常識などというものに囚われる必要も無い。もし現状や彼や彼女をおかしいと言うならば、この世というものがおかしい事を肯定してしまう事、以前にも言ったのを覚えているだろうか。ならば今日の有様は、至ってよくある今日なのだろう。


 他人の真似事が好きな彼女は、眠りについた彼を眺めながら少しばかし考える。それから一つ回答を見つけたようだ。多少の間違いは、彼女の事なので仕方が無い、と目をつむって欲しい。


 まずは、彼が積んだ本をわざわざ手に取り、彼の周りに置き始める。それから、彼のそばにしゃがみこんで頬杖をつき、短く息を吸う。


「時々、私も。ちょっぴりずるい。かも。

 ので、えっと…そうだ、説明。


 説明、沢山しないと、私、分かんないの。

 ねぇ。“ご教示頂けますか”、ネクロ。」


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