2章 12


 どうもこうも、赤い霧の中で生まれた彼女はこの市街地の生前を知る由もない。街と呼ばれるもの、家々があって、人が住まう様子は彼女にとってはおとぎ話のことである。


 また、死体が転がる様子、建ち並んだ崩壊寸前の文明は、この世界においてはおそらくよくある日常でしょう。

 平和を知る者に宿る、慈しみのような、哀れみのような、目前の状況にひどく動揺してしまう感性を彼女に備わっていてほしかったのだけれども。


 平和を知らないし教わらなかったのだから、これといって何を思おうか。


 ああでも、もしかしたらあなた、その心に揺れてしまう彼女を見て楽しもうなどと思ったのでしょうか。けれど残念でした。


「なにも、無いね。でも、いろいろあるね。」


 道中、すっかり傾いてしまって地面を指す道路標識に興味を惹かれ、ユピトリはまじまじとそれを眺める。


「これ、一体なんだろね。そこ、何も、無いけど。何かあったのかな。うん。分かんないや。」


 もはや意味を失った記号に、小さな空想を馳せるだけ。

 このように、彼女は分かり得ない惨状に対して、何かを考える事が苦手である。


「でもネクロ、どう思う?」



 もとは有ったもの、動いていたもの、生きていたもの。それらが全て止まっていて、壊れていて、死んでいる。それではなくなっている。

 おかしな方向を指す標識、割れた地面、われたガラスの破片。


 そんな日常が壊れた、非日常を目の当たりにしても動揺しない彼女の様子に、言い及ぶことなど、ない。


 しずかな道から帰ってもよかった。

 わざと、酷い道から帰ったのだ。

 なにか、なにか反応がほしくて。

 怖がっても喜んでもいい。狂ってもいい。


 でも、彼女からは何も出てこなかった。


 鳥と人間との融合など、そんなもの。そんなものに、感情を求めること自体。無駄だった。ひどく退屈した。


 ___ロゼ。あなた、随分しょうもない物で遊ぶようになったのですね。


「…………」


 まるで人間のようにため息をついて、まるで人間のようにわざとらしく彼女の問いかけに何も返すことなく。ただ喋りもせず拠点へと足を進める長髪の青年の背中に体重を預けて、目を閉じる。




 驚いた。まるで人のようなことを考えるんだね、あなた。そして生き物に恋をした事が無いんだね、あなた。


 完全や完璧、裏も表も無く、終わりも始まりも無い円を描いたものがあなただと思っていたのだけれど。いささか安堵してしまう理由を考えてみた。結論はすぐに出たのだけれど。

 おそらく、無機質と呼ばれるが人の形をしている以上、やはりどこか人らしかったからではないか。そこに何か親近感のようなものを抱いてしまったからかもしれない。


「ねぇねぇ?ねぇ、寝ちゃった?」


 目を閉じた彼の背中を、ユピトリはパソコンのキーを打つように人差し指でつつく。

 果たして彼の正体が何であるかなんて、彼女には分からない。説明したところでさして理解もできないだろう。だからもしも、その程度の刺激で彼が壊れてしまったら申し訳が無いのだけれど。


 ユピトリは返事を待って、面白がって、彼をつつく。



 痛覚が、感覚がないのなら、きっと反応はしないでしょう。


 どうやらこの世界に居座り続ける古の発明は、人類を排除するために造られたターミネーターでも、ダメなあなたに優しく秘密道具を授ける青ダヌキでもないようです。


 それならば何なのかという話なのですが、どうやら長話は後でたっぷり、なんならお耳がもう聞きたくない!手足はもういらないわ!なんて、それぐらいの量をご用意しております。


 あなたはいつだって前向きで、ひたむきで。

 いつだって喧しくて泣き喚いて、だれかの予定と、調子と。運命を狂わせることができるのですから。


 そんなの役割望んでない?そう言わずに。

 僕だって神さまのご意志に従って、悪魔的な中立を保っているのです。与えられた役割を全うするというのは、案外愉しいものですよ。


 荒れた市街地を抜けて、少し入り組んだ奥の方に、人の気のない。建物。もし生存者なんてものが有ったならあ、ここに身を隠していてもおかしくはない、そんな大きさ。


「着いたぞ」


 そう言って、長髪の青年が、背中に背負うものと後ろを歩いていた少女に告げる。


 背負われていたものは、だるそうに顔をあげ、片方の手を建物の壁へと、軽く。触れた。すると何やら小さな音がして、それの正体が何かを議論する暇も与えることなく、青年が扉を押し開けた。


 びゅうっ、と風の抜ける音がした。

 外から見た建物の中身、入り口に面したロビーのような場所は、薄暗くて、所々から差し込む光を頼りにしている。そんな印象を受けるだろう。


 次のステージへ単身で飛び込むか、“やっぱり辞める“か。


「 どうぞ 」


 ぐったりしていたネクロが、背負われたまま。ユピトリを見て、落ち着いた音を発した。


 神さまの意向のままに描くなら、ここでは片方の眉を上げて、さながら映画の悪役のように。主人公を拠点へ誘い込むべきなのでしょうが。

 僕は無表情で、無感情です。と言わんばかりの顔をして、彼女を迎えます。



 自由さを称賛しながら、分かりきった二択の道を示すのは、この鳥の羽を毟り取ってしまいたいなどという深層の心があるからでしょうか。

 神様と共にいるという事、神様に手綱をとられているということ。回路を繋がねば動かぬ体では、宙を舞う鳥が羨ましいか。予想できない結果が恐ろしいか。


 などと、彼のバグの多そうなプログラムの中に憧憬の念があってほしいと、一抹の希望を抱いてみたものの。きっと、無いでしょう。


 例えあったとしても、そんな事御構い無しにユピトリは一歩、建物の中に足を進める。いや、風を受けた時、もうすでに飛び込んでいた。

 彼が言う次のステージには、ボーナスとして宝箱があるかもしれないし、罠が置いてあるかもしれない。


 いずれにせよ、ひたすらに目の前に立ち向かおうとしてしまう事、それは彼女の習性や性格的な問題であるため、やはり誰にも止めようが無かった。


 まったく、ほんとうに言うことの聞けない小さな小さな子供のようですね、と言いたげな彼の姿が目に浮かぶ。

 あなた、わざとらしく無を装うけれど、その裏飄々と狡猾でありたい気持ちが、どこかで薄く見えている。


 なのでここぞとばかりに、大きなため息の一つでもついてみるといいだろう。風の音や羽ばたきで、その大切な気持ちはきっとかき消されるだろうけれども。いいやかき消してみせようか。


「ここが、あなたたちの。」


 上や右や左や後ろ、尽きない興味にユピトリの首が回り続ける。


「ふふふ。」


 飾り気のない淡い光が心に心地が良いらしい。尾羽をピンと立てて、「キョキョ」と鳴いてみせた。



 親愛なるユピトリ 僕の胎内へ、ようこそいらっしゃいました。


 ネクロは青年から降りて、そんな笑みを張り付けた。


 何処ぞの誰かは口に入れる前の過程を愉しむと言っていましたが、さて。あなたはどんなふうに僕を切り刻んでくれるのでしょう。


「…部屋 片付けてくる」


 そう言って、青年は階段を上がって、奥へと消えていった。まったく、シャイな御人。


 相変わらず薄ら笑いを剥がすことなく、青年を見送って、きょろきょろと首を動かして鳴く少女に、言いつけ通りの歓迎を差し上げる。


「お腹空きません? いいお部屋があるんです」

「そこで、それ。 頂きましょう」


 それ。とは、寄越された菓子類。

 ぐったりしていた先ほどとは違い、表情に曇りも焦りもない。絵に描いたような綺麗な笑みを浮かべて、奥の扉を指差す。


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