2章 10


 この場に含む意味。きっと、何かが起こるに違いない。いや、もしかしたら何も起こらないのかもしれないけれど。


 教わった言葉をあちこちにばら撒くほど脈動に富む彼女ではあるが、獲物であると同時に空を舞う狩人でもある。


 静かに、彼に合わせて瞼を落としたり開いたりを繰り返して、得体の知れない彼を見つめる。その最中、外の光を含んだ髪色が自分の目と似ているとか、あまり暖かくない手だなとか、そんな事をぽつぽつ思うのだ。


 ユピトリは、ふと気づく。


「私、あなたの事、全く知らないみたい。あなた、私の事、知ってるのに。


 いっぱいの不思議。ねぇ、おしえて?」



 教えて。

 僕はこの言葉が好きだった。

 こんなイレギュラーな自分を認められている気がして。


 無機質は下を向いて、味のないはずの言葉を味わう。

 僕に耳があってよかった。言葉が使えてよかった。

 僕に、脳があってよかった。


 彼女が草原にぽつんと咲く花ならば、僕は何なのでしょう。


 無機質は顔を上げて、揺れて目にかかる前髪を片方の手で押さえ、彼女に視点を合わせる。


「____何を 知りたいですか」


 こんな枯れ果てた自然のなかで。

 雨が降るかもしれない空に監視されながら。いつ強くなるかわからない風に吹かれながら。いつ壊れるかわからない地に足を預けながら。


 無機質は自然には抗えない。干渉できないものには味を加えれない。根を張れない。皆が愛す世界、逆に機会が恐る自然の世界で、それでも、“知りたい“を受けた。


 これは、また、可愛らしいものを押し付けてくれやがりましたね。



 認めるもなにも、あなたは初めから存在していて、あなたを認めざるを得ない。やがて普遍の中に溶け込んで、見えなくなっていても認めざるを得ない。


 そういうもの、あなたは。形容してしまっては、含む謎がありきたりに成り下がってしまうでしょう。


「えっと、えっとね。あなたと、ロゼの事とか。

 ネクロ、ツァラの事、嫌いなの?さっきのとか、なんだかそう聞こえた。

 あとは、どこに行くのかなとか、ネクロは、いい人なのかなとか。」


 まだまだ多くの事を聞きたいが、ある程度でユピトリはひとりでに混乱し始めた。小さな頭では、一度に多くは処理できなかったのだ。


 いっぱいいっぱいになった質問に、「とにかくいっぱい」と区切りをつけてはみたが。そのあたりの処理、彼はずいぶん得意ではないだろうか。


 彼の言う可愛らしい彼女に、少しスパイスを加えてやっては、みてくれないか。




 彼女の空間には埃をかぶったベッドがあって、植物を飾ってあって、飾ってあるそこら中から自然の草が生えたりしていて、飲みかけの飲み物だったり、落書きの途中のノートだったり、何故かそこだけ律儀に纏められた消しくずがあったり。飾られた植物には小さな虫が住んでいて、小さな虫用の餌があって、ベッドの下のおもちゃ箱には、沢山のがらくたがあって、部屋に似つかない貰い物もあって、小さな窓があって、閉じる気のないしょうもない鍵が扉に掛けられていて。小さな窓からはいつだって炎や水や空や、地獄のような景色が絶え間なく写り変わっていて___


 ごつん。


 自分自身の頭を、こめかみを、殴った。自分で。

 鬱陶しそうに瞬きをして、軽く頭を振る。


「 …失礼、」


 クリアになった目は、また、ユピトリを捉える。

 捉えて、瞬きをして、見て。握ったままの手を、自分の頬に重ねた。


「僕には体温がありません」


 空間も、隙間も、句読点もない。さらさらしたセリフ。温度差のない、凹凸のない、動かないセリフ。


「賢いあなたなら、分かっていただけますね」


 まるで質問の答えになっていなかった。

 が、これが答えだと言うのだ。

 いっぱいいっぱいの処理の結果は、これだった。


 頬に重ねた手を降ろして、離して、ゆっくり立ち上がった。それもまた、変わらぬトーンで音を打つ。


「僕は世間的には 悪いひとです」

「きっと」


「悪くて、イカれた存在です」


 これは愛に狂って濡れた表情でも、慈愛に満ちた表情でも、悲しみを含んだ表情でも、なんでもない。

 形容する言葉が、見つからない。


 風が吹いて、髪が揺れて、ほんのり片方の口角が上がった気がした。

 チャプター1のエンディングが流れるなら、間違いなく、ここだろう。

 まるで予想のできない全てに、生き物じみたものを感じない。そう思えたのなら懸命である、無表情に笑う彼の全てを見えられただろうに。



 思うに、彼やあなたは少し彼女の事を過大評価しているように思える。底抜けに優しい陽だまりの心を含む彼女は、ただそれだけであってごく普通であるのだ。


 否、私も少し大袈裟に言いすぎた。残念ながら彼女はどう足掻いたところで普通にはなれないじゃないか。


 でもそれは、彼も同じはずである。生命の鼓動の薄い、黄緑色の目をした彼も俗に言う異端というものなのでしょう。


 彼女の言葉を借りるなら、「一緒だね」。

 また一つ、無自覚に愛しさを重ねてしまう。混沌とした無意味や意地悪に、面白さを見出してしまう。


 …それで、ユピトリは瞳を揺らす。


「悪い人なの?それは、それはとても、困ってしまう。」


 素直な彼女は、言葉の通り一目で困惑している様子が分かる顔をした。


「でも、そうかも。たしかに。私、あなたのせいで、泣いちゃった。」


 一つため息をつく。

 そのエンディングというものを見終えた後の心地は、形容しては力を失うものと思う。



 …………



「困ったあなた

 こちら側には、困ったあなたを諭してくれる存在はいません」


 ___海を見る。あおい匂い。


「僕はきっと、あなたの味方はしてやれない」


 ___風に揺れる。緑のにおい。青と緑のにおい。


「こちら側には、人間のこころを持った者はいません」


 無表情。匂いがしない。匂いがしない。

 なんだって思わない。音が出るだけのタイプライター。かたかた。ぱちぱち。


「機械と、   壊れ」


「お待たせ」


 中途半端になっていた音は、菓子袋を掲げた暗い青長髪の声によって遮られた。


 遮られた音の持ち主は、ほんの少し、笑っていたような気がした。


 困ったような、満更でもないような表情で、青年は語る。


「はは、結構もらった。

 いや、食いもしない甘い菓子が沢山あるんだと」


 ネクロは相変わらず、薄い笑みを浮かべて、また当たり前のように青年に差し出された手に、手を重ねる。


 そのまま、少女の方へ振り返る。


「………寂しいおじょうさん。

 僕ら、片方ずつ、手が空いています。」



 人の心とはなんであろう。人で無いものをいくつか知っているが、そもそも人の心が分からないのであれば、もはや考える必要もないのかもしれないが。


 結局、彼の言いたいことの真意は分からずじまいだが、ユピトリの気はすでに菓子に傾いていて、滲み出る唾液で口の中を濡らしていた。

 また、二人の何も無い手を見て、純粋に喜んでしまって、ユピトリはそろそろと手を出した。重ねた。握った。


 所詮獣であるのだ、このように短絡的かつ本能に基づいて生きる彼女の粗相を、大目に見て欲しい。喜びに、自分に、真っ直ぐに応えてしまうのだ。


「えへへ。私のからだ、みんなより、温かいから。あなたたち、ちょっとだけ、ひんやり。」


 薄い笑いに、無邪気に笑顔で返すのだ。


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