これは、なんだ?
先程まで冷戦を起こしていたのだが、こうだ。最愛の者は血を流して倒れているし、実験台にしてやろうとした鳥は、そいつを抱きしめながら、血を。そこらじゅうから血を流している。
世界が揺れている。床に転がる空っぽの注射器を見て、研究者は全てを悟る。“何か“したのだ。いつだって理由を、意味を告げずに一人で行ってしまう。やめてと言わずに、毒を受け入れようとする。いよいよ、やっと、行ってしまうのか。
私を置いていかないで欲しい。
エゴ。愛。まだ、溺れてたって、いいだろう?
「ユピトリ、離してやれ。熱がってる。」
澄んだ、落ち着いた声で言う。
おそらく今、なにかと戦って身体中大汗をかいて、必死に、息をしている。陸で、溺れている。そしてまた、“何か“を肩代わりしているであろう少女も、限界に近いだろう。
私は神でも天才でもない。例の機械のように、平等に世界を扱ってやれない。愛する者と、愛する者を救おうとした少女に、最大の敬意を払ってやることしか、“してやらない“。
自分を、彼を濡らす血が混ざり合い、水たまりになっている。天と海を繋ぐ雨が、一つになっている。「離すもんか」と痛みに耐える獣の声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
少女は必死だった。自分の命が尽きた時、それは彼の命も終わりを告げるのだ。だから今はただ生き続けるしかない。
生きる。生きたい。生きなければいけない。
生を渇望し、使命を背負って貪欲にユピトリは魂を燃やし続ける。己が身を焦がさねば輝けないここで、彼女はよだかの星になる。
ついにユピトリの体は床に崩れ落ちた。
吐き気や寒気が止まらない。このままでは望まない結末を食い止められない。
震える体で、立ち尽くしたままの男を眺め、それから以前の言葉を思い出した。
「ロゼ、ロゼ、ロゼ。お願い。私を、私を、死なせないで。」
足元に転がる少女が、今にも死にそうな顔をして、なにかを訴えている。何も耳に入ってこない。酷かった雷雨は止み、そこに有るのは静寂と死と、命と、魚と鳥と、私のみ。
男は、床に崩れ落ちたユピトリの側にしゃがみ込み、頭を起こす。そして随分前に採った、彼女の微量の、あの血液を飲ませてやる。精々、生き長らえるがいい。説教と嫉妬は、後で山ほど贈ってやる。
_ああ、ああ。ダメージを半分くらいやがって、どうもありがとう。でも、ほんとは、おれが欲しかった。愛も世界も吐き出す毒も、ダメージも、痛みも。おれに、私に頂戴。
男は首に下げていた石を外し、横たわる人魚の胸に宛てる。戻す。お前のものだ。心臓が別に有るからと言って、なんでもやっていいとは言ってない。私が嫉妬するのを知っていて、余所者に愛を与えるな。私を、独りにするな。
「…腕でも目でも脳でも、全部、くれてやる。
私より先に逝くのは、許さんぞ。」
胸に吸い込まれていく紫色の石が、凄まじい輝きを放つ。全てを飲み込むような勢いに、月も海も水も、大人しくなった。エルドレッドは、ツァラの額に自身の額を重ね、消えるような声で何かを囁く。
勢いと光は徐々に収まり、深海の王だった者の汗は次第に引いて、穏やかに眠るような、いつもの寝顔へ戻った。
さて、夜鷹の鳥。次はお前の番だ。
「調子は如何かな、ユピトリ。」
研究者はすぐ側で転がる少女へと言葉を投げかける。と同時に、ギフトヒールを発動する。敬意ぐらいは、贈ってやる。分け与えられた体力はお前のものだ。煮るなり焼くなり、好きにしろ。
月や星や太陽に手を伸ばしても届かないことを、賢い頭だから気づいてしまう。だからこそ、それらに畏怖の念を抱くものである。
所詮人外にもなりきれない彼が、人であってよかった。曖昧が連なる中でただ一人、確立された存在であってよかった。
居場所が無かった血が、あるべき場所に戻って体を巡る。蝕む棘が抜け、死線の中でもがいていた獣の表情が穏やかになる
彼女の中には朗らかな兆しが差し込んだというのに。
もう、お礼も言えそうにないや。
張り詰め続けた糸が切れ、“えへへ“と顔を綻ばせたのちにユピトリは目を閉ざした。先ほどまで誘われていた、不可逆の眠りではない。
隣に横たわる彼と同様、暫し雲に隠れるような、しあわせな眠りに落ちていったのである。
まるで幼子のように、エルドレッドの白衣の裾を握りしめて。
……今は彼らに、雲の切れ間ができるまでの安寧を与えてやりたい。
事が終わり、エルドレッドが拠点の後片付けに追われてその場を離れている間、ツァラは目を覚ます。
眠そうに伸びをして、胸に埋められた、戻ってきた本体を撫でて、確かめる。
すぐ側で寝息を立てる、小さな少女の額にキスをして、立ち上がり、落ち着いた足取りで拠点を出る。
眺めのいい場所に蹲み込んで、冷たい潮風を感じる。
紫色の薄いカーディガンを、きゅっと握る。
「………寒いな。」
鼻をすする。朝日に照らされ、潮風に揺れる髪。
寒さを、痛さを、苦しさを。鮮明に感じたのはいつぶりだろう。すうっと空気を吸い込んで、世界を味わう。うん、悪くない。
意味もなく、静かに笑う。嬉しいような、哀しいような、寂しいような。たくさんの感情が入り乱れ、纏める気など、更々なかった。別にいいかな、今は。
あの時。一割狸寝入りしていた魚が、ことの一部始終を全て聞いていたことは、言うまでもない。
___
目が覚めた。
彼女のからだは、先ほどまで血に濡れていたと思うのだけど。綺麗にされていて、随分大きなシャツを着せられていた。
隣に目をやると、彼が目を閉じていた。死んではいないか、ちゃんと息をしているのかを慌てて確かめた後にユピトリは安堵して、彼の胸にうずくまる。
ああ、よかった。全部、元通りだ。
全身の力が抜けたように、彼にもたれていると、不意に海の音が聞こえた。いや、彼女ははっきりと海を知らないのだから、海を想像したといった方が正しいだろうか。
誰も知らない海、知ってはいけない海。
「…えへへ。」
死の淵に立って、彼の神秘さと美しさ、秘密の一片を垣間見たことを思い出して、ユピトリの口元が緩む。
それからつんつん、と彼の唇をつついて、再び訪れたまどろみに身を委ねるのだった。