1章 2


 感性が豊かであるほどに紫色は意味を持つ。例えば赤と青が混ざり合う様から、精神と肉体の統合を意味するかもしれない。

 いずれにせよ、その先には高貴な神秘が含まれているのは確かだろう。だから、誰もが紫色を好んで使う。

 ユピトリは言われるまま顔をあげ、ツァラの目を見た。


 好きなものを見ると嬉しくなってしまう。ましてや見つめ合ってしまうなんて。とても、素敵。

 おそらくそのようなことを思っているのだろう。照れてしまって、けれど心地がよくてニヤニヤしてしまう。

 もしやツァラは何も思ってはいないのかもしれないが、そんな些細なことだけでも、ユピトリは嬉しいのだ。



 汚れなき白。決して汚してはならないと、心のどこかで戒めていた。

 守ってやりたい。決壊せぬように、傷付かぬように、そっと蓋をして、何不自由ない暮らしをさせてやりたい。


「___可愛いユピトリ。どうか、そのままでいて。」


 真っ直ぐこちらを見つめる、あまりにも無垢な少女の頬を、髪を撫でる。

 頬の斑点を、親指でなぞる。ひとつひとつ仕舞い込むように、大切に触れる。



 彼が何を思って言ったのか。ユピトリにはわからないけれど。

 夜風に当たったような、ひんやりとした手を取って、ユピトリは頬に擦り付けた。


「えへへ。私、変わらないほうが、いいのかな。じゃあツァラも、私のこと、いっぱい触ってね。」


 緩んだ口元からは、砂糖の甘い香りがふわりとして、幸せが溢れた。

 本当に、いつまでも今が続けばいいのに。


 けれど砂糖がやがて溶けて無くなるように、大抵いつまでもというものは続かないものだ。少し、寂しくなってしまうね。


「ねぇ?いつか、変わっちゃうのかな。」



 終は、死は。いつだって平等だ。終のないものはない。万物は必ず、死に帰る。霧散でリセットされる便利な身体にも、いつか必ずガタがくる。そんなことは、分かっているのだ。


 変化とは、終わり。何かを捨て、何かを始める。得る。静寂で暖かく、優しい時を捨ててしまうのは、あまりにも惜しすぎる。


 少女の前に立ち塞がる闇さえ、埃さえ。視界の端にも入らぬよう、消し去ってやりたい。こんなことを口に出したら、少女は途端に反抗するだろう。一人で立って、全てを受け入れる、脆く儚く強い身体。

 少女を抱き寄せて、吸血鬼は目を閉じ、静かに呟く。


「……お前の望む答えをあげよう。」



 はてさて、望むものとは何だろう。大人の腕の中で、首を傾けてユピトリは考えた。

 変化とは、始まり。何かを掬い、時に捨てるものかもしれない。


 …変わる事変わらない事、いずれにしてもそれらは自由というものに似ている。というっことは結局、他者の手でどうにかするものではないのだ。


「ふふ。わかんないや。もしかしたて、いつかツァラより私、おっきくなっちゃったりしてね。

 でも今、は、もうちょっと、ギュッてしてね。してほしいな。」


 たまに未来に想いを馳せるのも悪くは無いが。今のユピトリにとって大切なのは“今“である。

 ユピトリは、死を垣間見てしまった彼の胸に顔を埋めた。



 断る理由もない。いくらでも、満足するまで。何度でも抱きしめてやろう。

 ツァラはユピトリを静かに抱きしめて、背中をトントンと、やさしく叩く。幼子をあやすように、大切に。


 少女が大きくなって、成長して。果たしてその場所に、自分は居るのだろうか。考えるだけ無駄だと、そっと蓋をした。


「ユピトリ。…大きくなっても、俺を見つけてくれよ。」


 何だか笑えてきた。こんなにも、こんなにも無垢で素直で小さな少女に心を洗われているのかと思うと。情けない。成長を見届けたいという建前より、いつ死ぬか分からない寂しさが勝った。


 男は少女を抱きしめながら、声も出さず涙を流した。



 普段と違う様子に、ユピトリは戸惑いを隠せない。どうしてしまったかな、どうしたものかな、何かしちゃったかな。


 あれこれ考えるが、好きな人が泣いているのは嫌だった。彼には、笑ってほしいなあ。

 今一度顔を見て、ユピトリはツァラの涙を指ですくって舐める。それからおでこを頬に擦り付けた。


 ほんのりとした塩気に広がるは、理解し難い悲しみ。彼がなにに心を乱されているのかは、まだ今のユピトリでは分からない。

 だから彼の言葉を素直に受け止めて、飾ることもできない言葉で返すだけだった。


「吸血鬼、だから。もうおっきく、なれないよ?でも、わかった。いつでも、見つけるよ。」



「…」


 羞恥心などもはやないに等しい。子供に泣き顔を晒した、だからどうした。そんなことより、気持ちが降り積り、止まらない。申し訳なさ、寂しさ。なんの関係もない小さく無力な少女を、大人の汚い戦争に巻き込んでしまった。


 先の見えない暗さへの不安。溺れてしまうことの恐怖。恐怖…?


「…ごめんね。ユピトリ、ごめん。ごめんなさい。」


 ただ謝罪の言葉を垂れる。意味があるかはわからない。ただ口から出てきた。目から出た水分と同様に、なぜか止まらなかった。


 今日は苦しい涙じゃない。ああ、ユピトリが持ってきてくれた、あの瓶を持ってきてくれたおかげで、あの男のせいで、毒を打たれなかった。


 何の涙で、何ん謝罪かわからない。毒を打たれない寂しさか、わからない。喉の奥が熱くなって、苦しくなった。



 分からない、分からない。どうして、謝罪や涙や嗚咽のようなものが溢れるのか、分からない。

 本当に、世の中というのは分からない事だらけだ。故に生き物というのは、それらに“畏怖“という感情を抱くのかもしれない。そうして何か“信仰“に近いものをおこなうのかもしれない。


「ツァラ、ねぇ。」


 ユピトリは彼の胸に両手を添える。


「あのね。あなたは、何も悪い事、してないよ?」


 だから泣かないでと、日差しに雪が溶けるような笑顔を見せた。



 真っ暗な海底には、陽の光は決して届かない。潜水艦で潜るか、海を排除しなければ、決して。何十層もある殻を割ることなど、有り得ないのだ。


「___じゃあこれも、許してくれる?」


 そう、言った直後に。ツァラはユピトリの首筋に思い切り噛み付く。吸血とは言い難い噛み方、何と言い表すべきか。


 少女の頭と腰に軽く手を添えるだけで、まるで逃がさないという意志がなかった。


 空気がおかしかった。少女が小瓶を持ってきた時から。エルドレッドが客人をもてなさないことから、既におかしかった。少女が、甘い甘い、真っ白な角砂糖を食べまいか迷っているその時からおかしかった。



 生きたい。

 所詮ユピトリが、真っ先に思ったことといえばその程度だろうか。

 霹靂として訪れた痛みに、体が不随意に動く。不明瞭な彼のシャツを、強く握りしめる。虚ろにつかれた恐怖に、魂が声を漏らす。鳥とも人ともいえない声が、格好悪く天井に伝播した。

 彼女の動揺がこれである。


 …して、果たして、何がおかしいのだろう。彼女が好物の砂糖を前にすることがおかしいというのならば。最も、彼女や、彼の存在や起源からおかしいと言っても過言ではない。


 尚もおかしいというのならば。この世は元々おかしかったんだ。それならば、今更悩む事なんて無いんだよ。それが普通なのだから。


「いたい、いたいよ、ツァラ。」


 うめき声と共に、ユピトリは呟く。



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